EDUCATION SYMPOSIUM

創造性を考える教育シンポジウム

『創造性を考える教育シンポジウム』

クリエイティブの育つ場所、育てるために必要なこと

  • ◎ 開催日:2017年3月4日(土)
  • ◎ 会 場:聖心女子大学 宮代ホール
  • ◎ 参加者:116名

今回で3回目となる教育シンポジウム。第1回は教育機関による美術教育の現状や問題点、企業側のニーズなどについて、第2回はさらに産学官の連携に着目し、その取り組みについて話し合いました。そして今回は、クリエイティブな人材を育てるために大切な要素や環境について考えるべく、「創造性を考える教育シンポジウム」として開催。今回も教育、企業関係から多数の方々に参加いただきました。

全体進行は、日本広告制作協会理事(武蔵野美術大学キャリアセンター課長)澤野誠人。
鈴木理事長の挨拶でシンポジウムはスタートしました。

第一部

『脳は出会いで育つ。体験・感動・身体性』

日立製作所役員待遇フェロー・理学博士・脳科学者 小泉 英明 氏

日立製作所役員待遇フェローの小泉英明氏は、脳機能計測技術の開発に大きく寄与し、それらの技術を用いて、脳と心、教育との結びつきについての研究を進めています。

前回に引き続き、2度目の登壇となった小泉氏は「脳は出会いで育つ。体験・感動・身体性」をテーマとしつつ、「生物の進化」という、生物学的な側面からの脳科学についてもお話しくださいました。

古代からの進化の歴史を受け継いでいる人間

今回の小泉氏の講演は進化という観点からはじまりました。

「さて、何年か前の話しですが、たまたま知人から夏休みの直前に連絡が入りまして、今ガラパゴスにいるのでよかったらこちらへ来られないかと。突然の電話です。

その年に限って、夏休みの予定を入れてなかったので、近くの旅行会社に行くと、たまたま席がひとつだけ空いており、これが新婚旅行者の方の席。新婚旅行の方に一人だけ混じって出かけました。現地では船でダーウィンが、ガラパゴスからこのタヒチを通って、ニュージーランドを回った軌跡を辿りました。この南太平洋で過ごしたことで多くのことを学んだと感じております。

「カンブリア爆発」(古生代カンブリア紀の初頭、約5億4千万年前から5億年前頃に、今日見られる動物の門の多くが一気に出現した現象)がありますが、なぜこのようなことが起こったのか?そこに何か本質があるのではないか?それから、その時期の化石を世界各地から集めはじめました。34.5億年前の、ストロマトライト(藍藻類の死骸や泥粒などによって作られる層状構造の岩石)、これ卵巣類ですけれども、この卵巣が太古の海の中で酸素を発生させて地球上の大気に酸素をもたらしている、我々が吸っているこの酸素は生物由来であるわけです。そして、クラゲのようなものの時代を経て三葉虫のような硬い動物が出てきました。早く動けるようになった結果ですね。たいへん優れた、遠方を正確に見通せる目ができてきたわけですね。これは、膨らみがありますけれどもここにございますようなこの目、これも最近の研究で非球面のレンズを使っているということがだんだんわかってきました。これが5億年以上前の話です。

これを考えていくと、人間っていうのはやはりどういうものかっていうのが色々見えてきます。この進化の中で、一見進化をしないでずっと現在にそのまま生きている、そういう種もございます。オウムガイもそうで、1億年以上ほとんど変化していません。

また、日本の近海に生息しているナメクジウオは、目もないし、腸管というのは体をそのまま通っていまして、そこに水と一緒に微生物を吸い込んで消化しています。脊椎はありません。その代わり一応泳げますから、脊索というやわらかな脊椎のその前の段階のものがこの中を通っているわけです。脳はほとんどありません。このナメクジウオの全遺伝子解析というのが、行われてきました。これは『ネイチャー』の2008年に発表されましたから、まだ10年くらいしか経っていませんが、それで分かったことは全遺伝子の総数が21,600個、これは人間の全遺伝子が22,000個といわれていますから、ほとんど近しい。しかも大事なことは、約60パーセントの遺伝子がヒトと共通だということ。この5億年の歴史を、進化の歴史を我々は引き継いでいます。これが私達、この、人間を理解するときの出発点ではないかと感じています。

今、化石と共に、実際に南太平洋に生息しているオウムガイの写真をお見せいたしましたけれども、これをふたつにカットしていきますと典型的な対数螺旋です。対数螺旋というのはこのオウムガイの断面だけでなくて、巻貝もそうですし、台風とか銀河系とか、皆同じような構造を持っています。数学的にこの対数螺旋というのは興味深い螺旋です。この螺旋というのはどこに収束するかということはわかっているんですが、そこに行き着くまでには、無限に螺旋を繰り返していかないとそこにはたどり着かない。数学的にはそういう図形になります。で、これがさっきの宇宙でも存在するし、生物でも存在します。古生代から現代まで、この対数螺旋の上に乗せてみます。そうすると、人間の胎児期の状態と比べることができるわけです。これはシカゴ大学の医学部でつくりまして、標本を撮影させていただいたんですが、最初は1ミリ2ミリという、まさに胚でありますけれども、そこから最後は赤ちゃんが生まれてくるわけですね。その間に、実は今お話しいたしましたような5億年6億年の進化を非常に速い時間で済ませています。これはヘクトルという方が類似性ということで見出しました。これには否定する人たちもいるわけですけれども、最近の分子生物学では、この類似性というのは否定できないものがあるということがだんだんと明確になってまいりました。

脳の発育と環境の重要性

私たちの体というのは、この、生命の進化の歴史を背負っています。それともうひとつ、私たちは進化の歴史をもって生まれてきたわけですけれども、一旦生まれ落ちると、そのあと環境によって脳の核心部分は作られてきます。最後の最後のところは、環境の要素が非常に大きいわけですね。それまでの繰り返しのところは遺伝的な要素が多いわけです。

感覚に関する非常に典型的な実験があります。生まれたての子猫を縦縞の環境の中で育てます。そうするとこの猫は、そのあと横縞、横線が見えなくなります。縦線は見えるけれども横線は見えなくなる。そして非常に大事なことは、少し大きくなってから一生懸命横線を見せても、もう横線の能力がよみがえることはない。一生、そのまま縦線しか見えません。そういう猫が出てきます。

なぜそういうことが起こるのか。今は神経科学で証明されてまいりました。このような、ある時期を逃すと、その後は、もう取得できないような機能、その時期を臨界期と呼びます。これを、あまり大きな問題とし過ぎるのはまずいのですが、この感覚的な、基本的な能力というのは、この臨界期が基本的であります。

だんだん分かりはじめているのは、睡眠のリズムもやはり臨界期です。太陽がのぼって、太陽が沈む。このリズムに合わせて睡眠のリズムを学習しています。ですから、夜、煌々と電気をつけて、そこに赤ちゃんをさらしたりするのはとんでもないことなんです。

未熟児のケースですけれども、命をとにかく救うということで、昔は未熟児の保育器は夜でも、もう煌々と電気を点けていました、いつもケアをしているということなんですが、そうすると睡眠のリズムが学習できない。そういうことがわかってきました。もちろん病院でも今は変わりつつあります。

先ほどお話しした、生まれたての子猫を縦縞の環境の中で育てるケースを、人間でも同じことをやれば、同様な結果になると考えられます。実際に人間の場合に実証されているケースですと、たとえば眼帯をかけてしまうと、片目のほうの信号が入らなくなります。脳は、すぐにそれを判断して、眼帯をかけないほうの信号はいらないと、考えてしまいます。これが幼い頃だと、俊敏になされてしまうんですね。
それで最終的には明るさはわかるが、形が見えないっていう、弱視になります。これは、小学校に上がるときの検査で弱視のお子さんを調べたら、小さいときに眼帯をかけたということが明らかになったわけです。

今はもう眼科では常識になりましたので赤ちゃんの時には絶対に眼帯はかけません。

それが徹底されてきています。この神経処理の基本原理、たとえば今の視覚に関しては、形、色の要素、動きの要素、つまり最初に網膜の像が映ると、外側膝状体というところに、その、網膜の画像に近いものがあって、そこから脳の中に取り込みます。分業処理でやるんですね。バラバラに処理しますから、その途中段階というのは形にはなってないわけですが、最後にまたそれを統合して、外界と同じものを私たちの脳の中に作り上げていく。これが私たちの視覚です。一度バラバラにしたものをまた組み立てますから、それは人によって違うわけです。あるいは経験によって違う。
みんな同じものを見ていると思い込んでいますが、細かいところはかなり違っているわけです。例えばなんですけど、これはある程度大人になってからもそこは改善できる余地もありますが、刀の鑑定をする人たちは、刀の地肌を見ただけで、それが何年に造られて、誰々の作だってところまで見えてしまうんですね。

でも、それを一生懸命に私に教えていただいてもそう簡単には分からない。
「ここに見えてる」って言われても見えないんですね。それと同じことが、たくさん日常に起こっていると思います。ですから実は教育というのも、ここのところを考えないといけない。

意識下の重要性 生きるとは手をのばすこと

教育で大事なのは意識下の部分だ。という話をするんですが、現在の教育の分野では、意識下の教育について、ほとんど取り上げられてこないんですね。なぜ意識下が重要かというと、いろんなことが同時に頭の中で並行して行われていますから、それが意識に上がってしまったら、もう頭は混乱の極みになります。このような処理は全部頭に入らない、頭に上がってこないんですね。もう、最後の最後に、全部処理が終わったところで、はじめて一本化され脳の中にあらわれていくわけです。そこではじめて、我々は意識にあがってきた信号を感じたり、見たりすることができるわけです。例えばですが、氷であったり氷山だったり、水面下の部分が見えない形でたくさん存在しているんですが、脳の処理っていうのはまさにこれでありまして、見えない、つまり意識に上がらないところが、実はもう、非常に大量な処理をしておりまして、意識に上がっているところは、ごくわずか、上澄みだということになります。

現在は、この上澄みだけで基本的な教育というのは考えられているわけですね。教科書を使う場合もそうです。つまり、知育というのはこの上澄みのところ、意識にあらわれたところだけで、教育が行われている。でも、本質的なものは、意識に現れない。
先ほどの、同時並行、並列分散処理でやっている様々な活動。これがどういう形で、我々の感覚としてあがってくるか。これは芸術であるとか、いわゆる、知育とは全然違うところに、あらわれてくるわけです。

例えばなんですが、八木重吉さんの『秋の瞳』という、大変によく知られた詩があります。この『秋の瞳』の中に、『人を殺さば』という詩が入っております。
「ぐさり! と やつて みたし 人を ころさば こころよからん」。
八木重吉という方は大変敬虔なクリスチャンで、本当に純粋な方だったんですが、そんな人でもこういうことを感じることがある。彼は本当に純粋ですから、何度も騙された。でも、八木重吉が人を殺めたっていう話は全く残っていません。子供も大切に育てています。
ですから、そういうことをやらないっていうのは、そういうような衝動があったとしても、その衝動を抑えるだけの意識下の、そういう力が育っていなければなりません。
例えばナイフを持った途端に、気づいたらもう人を刺していた。これは意識下が動かないとそういうことが起こるわけです。ですからやはり私はこの意識下の教育というのを、本気で考えないといけないと感じております。
でも、「小さいときに、なんでも教えればいい」かというと、これも危険な部分があります。なぜかというと、先程申しましたように意識下も周りの環境を通して育まれはじめているわけです。先程の視覚の話しに関連しますが、赤ちゃんが見るっていうのは、ただ見ているだけじゃなくて、視覚神経を、一生懸命構築しているわけです。耳もそうです。音楽に関する、あるいは音、あるいは雑音、そういう周波数の非常に広いスペクトラムに対して、対応できるような聴覚神経を形成している最中です。
そういった時期に、赤ちゃんや幼児がよくわかっていない時期に、余計な物を、我々がよかれと思って与えるということは大変危険だと、私は個人的に考えております。

例えば、文字のようなもの。小さいときに覚えさせれば確かに吸い取り紙のように、すぐ覚えます。でも、その間に他の大切なことに触れる時間が止まっているわけです。ここを十分に注意しないといけません。私は、昔のおばあちゃんの知恵のようなですね、そういう育児、保育、これは極めて重要だと思います。

フランスで行った実験ですが、フランスの国立倫理委員会を通して生後5日以内の赤ちゃん30人くらいに協力してもらい、赤ちゃんに母語のフランス語を聞かせます。すると左脳が反応しはじめます。同じものを、今度はテープの逆回しみたいに、言葉ではないかたちにして聞かせます。すると、赤ちゃんは途端に反応しなくなります。同じことをイタリア人の赤ちゃんでも実験。母語はイタリア語。新生児は同じ生後5日以内。そうすると、やはり母語を聴いたときには聴覚の付近が活性化します。その逆回しで聞いてもらうと、その活性化はずっと小さくなって、音がないときにはほとんど反応しなくなります。
つまり、生まれてすぐでも、もう赤ちゃんは大変に学習しているんです。
赤ちゃんはもう生まれてからすぐに忙しいわけです。それをやっぱりよく考えてあげないといけないと思います。

赤ちゃん研究をしているときに、詩人の俵万智さんの赤ちゃんにも協力をしてもらいました。それで、研究に協力してくださったお母さんたちに、俵さんの子育ての詩をプレゼントさせていただきました。俵さんからいただいた詩は101首。それが『プーさんの鼻』とい詩集になりました。そのときの題になった詩が、
「生きるとは手をのばすこと 幼子の指がプーさんの鼻を掴めり」。
俵さんは、この赤ちゃんの、手をのばして掴む、その意欲、これに感動して、この詩を詠んだというふうにおっしゃられています。まさにこれが意欲の発露です。

その意欲は、脳の深いところでおきています。
この赤ちゃんが手をのばすっていうのは、これは、いわゆるマニュアル人間の逆のことをやっているわけです。なんかわからないけれども興味のあるもの、それに対して興味が増していく、それで、舐めまわして確認するということですから、科学者と同じことを赤ちゃんはやっているわけです。
言われたことを、そのままやっているのとは、まったく違うんですね。そこが本質的なところです。ですから我々人間が学ぶのは、言われたことを学ぶのではなくて、いろんなことを試してみる、一石を投じてみる。その変化がどうなるのか、私たちの情報処理のアルゴリズム自身をつくりあげていく。これが赤ちゃんの最初の、非常に重要な学習です。

未来を考えることと言語の関係

こうやって考えていきますと、人間というのは動物と基本的には同じ脳のベースを持っているわけですが、どこで、他の動物と違いが出てきたのか、ここに興味が行くわけです。
人間とチンパンジーの差をまとめると、人間は、「階層的な文法による言語能力」がある。これは実はすごく重要なことですね。だからといって、必ずしも良いことばかりともいえません。ここから派生して悩みが発生することもありますから。
それから、「複雑な道具を製作し使用する」。「積極的な教育を行う」。「慈愛、憎しみなど、高次の感情を持つ」。そして、「未来を考える」、ということなんです。

積極的な教育を行うというのは、当たり前みたいですけれども、動物にはまだ発見されてはいません。チンパンジーの学習というのも、親が積極的に教えるということではなくて、子供が興味をもって模倣するというところから学習が始まっていきます。でも人間は違うんですね。人間が教育体系を作ったということは、人間の最大の発明のひとつだというふうにも言われるわけです。また、未来を考えるというのも、専門の動物行動学者たちは、動物は未来を考えていないというふうに考えています。人間はかなり先の未来まで考えている。ここが人間の本質です。これは後でまた言語のところでお話ししますが、言語と未来は非常に関係が深いと、まだ仮説でありますが考えております。そして、先ほど申しました、6億年前から在に至るまで、ずっと一貫して動物が生きるための羅針盤のような、そういう感覚というのが保存されてきています。これがまさに、快楽とか欲望です。これは50年以上前に行われた実験ですが、ネズミの側坐核という快楽を感じる中枢に電極を埋め込み、ネズミが自分で自分の快楽中枢を刺激できるような、実験をした人がいます。そうすると信じられないほどたくさん、そのボタンを押して、刺激を受けようとネズミは行動します。これは人間でいうと麻薬であったり、ギャンブルであったり、そういうことと直結した現象になっているわけです。もともと生存のために必要なものに対して、また栄養を取るために美味しいものを食べられたら、私たちは快を感じます。喉がすごく渇いて、飢えているときに水を飲むと、その飢えが強いほど美味しく感じます。それからセックスもそうです。すべて、この生存に関係した部分に快という、感覚が存在しているわけです。また、生存に対して有利なことですから、繰り返すということがより生存に有利になるので、この、快を感じたものに対しては、これは、何度も繰り返したくなるという神経系がつくられています。これが習慣性です。

この快という感覚、これはさっきお話した、ナメクジウオにもあります。目もなければ脳もないけれども、ぬくもりは感じられます。ぬくもりを求めて、移動する。凍えてしまわないように移動するわけです。また嗅覚の細胞もありますから、美味しい匂いのほうへ移動する。そうすると、餌がたくさん得られるから、より、生き延びられるわけです。我々の欲望と、5億年前の生物と、私は非常に類似のものが、生きるということの羅針盤になっていると考えております。

この、我々が快を感じるというのは、報酬が得られたときです。一種のご褒美なんですけど、自分に対するご褒美かもしれませんけれども、それを手に入れたときに、私たちが嬉しく思う。動物にとってのご褒美は、大体好きな食べ物ですね。アシカとか調教するときには芸ができるとすぐお魚を与えます。それからお猿さんの場合だったら、好きなバナナとか与えると、それを繰り返すようになります。そうやって、報酬によって条件付けしますが、その、報酬に関係するところが脳に何箇所かあります。その一つに線条体というものがあります。ネズミにもあります。ネズミも、こうすれば餌をもらえるとわかれば、それを繰り返す。快楽中枢を刺激したときの顔っていうのは、ネズミでも人間が恍惚としたときとそっくりな顔しています。

さて、人間の場合は、この報酬っていうのが、必ずしも物ではありません。もう少し抽象的な名誉とか、そういうものでも報酬として快を感じるわけです。この、金銭や名誉で、快を感じた時の脳の場所を調べていくと、動物が美味しいものをもらった時の場所とほとんど同じ場所。さっき申しましたように、5億年間の間にずっと生物は進化してきましたが、最終的には6割も遺伝子が同じ。昔のものをずっとリサイクルしながら、それを少しずつ発展させているようなかたちで、我々は生きているということです。ですから、お猿さんがバナナをもらったのと、勲章をもらった時の誉れと、動物的にいうと同じだと言うと大変顰蹙を買いますので、そこまでは申しませんけれども、脳の活動する場所を見ていると、非常に類似のところが動きます。それで、私は特に、人間の尊厳に近い、非常に大事なことが、今、見え始めていると考えています。お金で、この報酬系、先ほどの線条体の部分が動くかどうか実際に実験をやりました。お金が高ければ強く反応する。あげるお金が少なければちょっとしか反応しないという。こういうようなデータがきちんと取れるようになりました。

それとですね、非常に重要なのは、これは心理学的な検査になるのでかなり複雑ですが、「あなたは社会的に信頼に足る人かどうか」というテストを行いました。計測は機能的磁器共鳴描画装置で行いますが、快を感じているかどうかを測れるわけです。Aさんに、あなたは社会的に評価されるべき人だ、と高い評価が出てくると、Aさんの場合はお金よりも喜びが大きい。同じことを、Aさんの友人Bさんにも行い、機能的磁器共鳴描画で計測中のBさんに、友人Aさんの結果を知らせます。友人Aさんの結果が非常に高い評価だと知ると、Bさんにはマイナスの反応が出てくる。これも人間のもつ重要な側面として考えるべきです。

いじめの問題とか、ここまで深く遡らないと、本当の意味の解決は難しいと考えています。
報酬は、お猿さんとか、イルカとか、うまく芸が出来たときにすぐあげないと効果はないわけです。例えばその報酬を、30分後にあげても、お猿さんは何のことかわかりません。

でも人間は、それがわかる。宝くじを考えればすぐわかりますけれども、宝くじが当たった時には番号しか我々にはわからないし、紙を持っているだけです。でも当たったら飛び上がったりします。それは、その先のことが想像できる、未来が想像できるからです。人間は、言葉や記号を手に入れことで、一年後、十年後、百年後、そういう非常に先の未来も、想像したり、考えることができるようになりました。霊長研の所長をなさっている先生は、チンパンジーの活動から、「チンパンジーは今に生きている」と言います。過去のこともそれほど記憶が正確ではないし、それから未来のことはまず考えてない。現在に生きているから、悩むことはない。仏教のような話ですね。

さて、言語は時間も距離も、飛び越えることが可能です。人間は言語を得たから、大変優れた能力、応用が利くようになりました。でも逆に、未来を考えれば、死ぬ瞬間までいくわけですね。しかも未来のことは実際に起こってないですから、想像だけで、言語だけで、いくらでも深く考えることができる。そうすると、そこからもう抜けられなくなる。不安になる。いろいろな神経症、あるいは精神病の一部も、このような言語を得たからこそのメカニズムに関係しているのではないかということで研究を進めております。

身体性と「意欲」や「やる気」を育む、古い皮質。
教育とは古い皮質を育むこと。

創造性というのは今お話ししたようなところがみんなベースになってきます。意識下の問題とか、感動するということが大変重要な要素になると私は考えております。

やはり幸せを感じるというのは、感動と切っても切れない関係にあると思います。自分は安全なところにいる。自分には心配事はない、そういう状況になって毎日が過ぎていくというときに、幸せなのか。最初は幸せですけれども、そのような、心配がない状態に置かれて、それで幸せかっていうと、どうなんでしょう。お金がたくさんある方を見ていますと、お金でそんなに幸せは感じていない。じゃ、何に幸せを感じるか。そういうことを考える時代に今はいると思います。

比較的やはり新しいデータですが、感動したときに、脳のどこが活動するかというのが、わかってきました。それは、音楽を聴いて感動したとき、島皮質(とうひしつ:Insula)というのですが、ここが動くということがわかってきました。今だんだんと、生きた人間で計測できることが可能になりました。この島皮質に身体全体からの情報が集められていることがわかってきました。身体性の話というのは、脳の中に統合されて、ちゃんと処理の中に入っているということですね。ですから身体性という概念も、脳の処理のなかで、極めて重要なことになります。

特にこの感動というのは、これは映画『カサブランカ』でいろいろな素晴らしいシーンがありますけれども、感動して、涙が出る。でも、これを、ウィリアム・ジェームズという、百年以上前の心理学者は、別の視点で看破しまして、涙が出るからより感動するんだと、そう考えたわけです。感動して涙が出る。あるいは、鳥肌がたつ。その現象、体の現象自身がまたフィードバックされて、より強く感動する。ですから、身体抜きで感動というのはなかなかできない。こういうことがわかってきました。

そして、さっきお話しした意識下の部分というのは、脳の中心部にある古い皮質が作用しています。脳というのは、この、中心部分から外へ向かってだんだん進化していきます。

ですからこの脳幹の部分だけを取り出しますと、これは爬虫類の脳とも言われるように、爬虫類の脳と形もそっくりです。さきほど申し上げたように、進化の中の途中過程をみんな我々は宿しています。そして、その外側に、古い皮質というものがあります。これは、脳幹が生命を維持する基本的なところを司るものとするならば、古い皮質は、生きる力を駆動するもの。そして、人間がとくに発達させた新しい皮質は、いわゆる知育に直結したところ、これは最後の最後なんです。

ですから、芸術であるとか、例えばやる気であるとか、こういう、情動、感性の関係するようなところというのは、実は動物的なもう少し古いところの脳です。それにたいして、この新しい皮質、これ一番外側で、人間が極端に肥大してきたところですが、知育のほとんどは、その部分が中心です。しかし非常に重要なのは、この進化の進み方からご覧になってもお分かりのように、この新しい皮質、いわゆる知育で学ぶようなことを実際に実行するために、それを駆動する意欲とか、やる気とか、それは実は、このもう少し古い、深いところの古い皮質から、その信号が出ていることです。ですから、ここのところがきちんと育まれていなければ頭でっかちになって、何でも知っているけれども、使う気がしない、となってしまいます。つまり、図書館でいえば、蔵書数はすごく多いけれども、誰も閲覧者が来ないと。そういうことになりかねないです。ですから、教育というのはこの古い皮質を育むことであって、ここには芸術教育というのも、大変重要な役割を果たしています。

さて、感性とか理性とかいったときには、よく、右脳・左脳がと言われますけど、そこのところは、きちんとした裏付けはありません。むしろ、表面(新しい皮質)と深い所(古い皮質)、この関係が重要なんです。左脳と右脳であえて言うならば、これまだ仮説段階ですが、左の脳は分離・分析、そういう信号処理をする傾向があります。それから、右側の脳は、それを連続させたり統合させたり、処理をする。そうするとですね、通常言われるような右脳・左脳という単純な話ではありません。それではっきりしてくるのは、多くの方たち、特に右利きの方たちの多くは、言語野は左にある、これは事実です。ですから、左のほうは、その言語処理という、論理処理、これを主として司っているのは確かです。

光トポグラフィを使って、映像にあるのはオーストラリアから来た人間なんですけれども、彼が研究室で、自分一人で実際のデータを取りました。視覚刺激すると、後頭葉の視覚野が動いているのが見えてきます。言語に関しては、左半球の、色々な言語野がありますけど、そこが動いているというのが見えてくるわけです。こういうような方法を使って研究を進めています。

さて、進化の過程というのは、ずっと五億年前から、我々の体の中に宿されているというお話しましたけれども、実は赤ちゃんから大人になる時に、その順番っていうのはかなり進化の順番と一致しているということがはっきりしつつあります。

聴覚のような機能は、お腹にいるときに、かなり早くからその神経が発達します。それから、運動関係ですね。これ、赤ちゃんがお腹の中でお母さんをぽんぽんと蹴ったり、指しゃぶりをすることがあります。そして触覚、これは正確には体性感覚というふうにいいます。いま私が考えておりますのは、生まれてからも実はこの進化のあとを辿っているという形跡がある。ここを色々と調べています。

ですから、例えば前頭前野という、非常に高度なですね、まさに、想像したり、あるいは判断をしたり、それから、未来を的確に推測したり、そういうような機能の部分というのは、実は一番あとまで発達を続けていて、20歳、あるいは30歳ちかくまでそういう神経系は発達しているということがわかってきました。

アインシュタインの脳と創造性のこと

脳科学を教育に適用しようと国も動き出しました。これは日本が最初です。ただ予算の件もあり、長いこと続けられない現状があります。もっと続けなければいけませんが、残念ながら海外のほうがどんどん追ってきました。「脳科学と教育」この新しいこの分野で、学術誌が出ました。「Mind Brain and Education」といいます。これは2007年に出版されまして、世界で一つの雑誌だけが選ばれる「ザ・ベスト・ニュージャーナル・アワード」を受賞しています。さらに、「ネイチャー」誌って皆様聞かれたことがあると思いますが、従来「学習」や「教育」に関することは「ネイチャー」誌が扱う項目の対象外だったのですが、そのネイチャーパブリッシンググループから「サイエンス・オブ・ラーニング」という雑誌が去年の暮れに出版されました。教育のほうへ入ってきたわけです。

ここで話しは変わりますが、アインシュタインの脳は死後行方不明になり、検視解剖した博士が自宅に持ち帰りずっと研究していました。また脳は分割されて様々な研究者に渡ったそうです。さてアインシュタインの実際の脳の写真ですが、これは死んだ直後の脳ですが、左右の脳を繋ぐ、この真ん中に白く見えているところ、脳梁というところですが、ここがかなり大きいんですね。これは左右の脳を繋ぐ繊維のとこです。あきらかに、通常の人の脳よりも大きい。アインシュタインは76歳で亡くなったので、そのときは脳が萎縮しているはずです。アインシュタインの脳は重くはなかったって言われているんですが、あれは間違いで、実際は重いほうです。それから特にここの脳梁繊維っていうのは、若い人たちと比較しても、これは非常に発達しています。で、左右を結ぶっていうことは、さっき申しましたように、その、微視的、巨視的、あるいは分析的という、処理を結ぶところですから、ここのところはもしかすると、創造性に直結している可能性があるかもしれません。これがいま、だんだん判ってきたことであります。

OECD生徒の学習到達度調査(Programme for International Student Assessment, PISA)部局のお手伝いをやっておりますが、データは少し古く2006年に実施したものですが、学力調査と同時に、その意欲の調査も一緒にやっています。

2006年のテーマというのは、科学がテーマ。このときは57か国が参加しましたが、そのときの設問における日本の順位ですけども
「科学の知識を得るのが楽しい」 (57か国中 53位)
「科学を学んでいるときが楽しい」 (57か国中 54位)
「科学を学ぶことに興味がある」 (57か国中 52位)
「科学の本を読むのが好きだ」 (57か国中 57位)
「科学の問題を解くのが楽しい」 (57か国中 54位)
教育のあり方、非常に重要ですね。「意欲」と「興味」をどう育むか。
これから改善しなくてはいけない点を指摘しているように感じております。

『造形遊びと創造性の育成』

清心女子大学文学部教育学科教授・美術科教育学会代表理事 水島尚喜氏

2人目の講演は清心女子大学文学部教育学科教授・美術科教育学会代表理事 水島尚喜様による「造形遊びと創造性の育成」と題した講演です。まず初めにギターを抱えて登壇した水島氏は「私は美術や幼児造形を教えています。授業で日本の歴史における幼児教育の始まりはみたいな話をすると生徒が退屈してしまいますので、いつも授業の最初に体をほぐす意味で自作した歌を歌います」と述べ、授業と同じくギター演奏を披露。会場が和やかな雰囲気につつまれていきます。

♪ ずこうだいすき おえかきだいすき
こころと ぱれっと あけてみよう ゆめよ ひろがれ せかいじゅうに
そうぞうのつばさ ひろげよう ウォウウォウウォウ
みんなでえがこう みんなでつくろう とんとん みんなで みんなで たのしく ウォウウォウウォウウォウ
ずこうだいすき こうさくだいすき とんとん ぎこぎこ なにつくろう
せかいにひとつの たったひとつの そうぞうのかたち みつけよう ウォウウォウウォウウォウ
みんなでえがこう みんなでつくろう とんとん みんなで みんなで たのしく ウォウウォウウォウウォウ

映画『絵をえがく子供達』から読み解く、戦後の図画工作教育

講演の冒頭では自身が代表を務める美術家教育学会にふれ、その目的について「美術教育に関する研究協議を行い、美術教育の学術振興に資すること」と説明。続いてスライドを使いながら戦後の教育現場における「創造」の扱いについて年代を追って説明していきます。

ターニングポイントとなった昭和33年について「この年に造形活動を通して感覚を発達させ、創造的表現の能力を伸ばすという様なかたちで、初めて『創造的表現の能力』という文言が出てきます」と述べます。水島氏は当時の教育現場を伝える資料として羽仁進監督のドキュメンタリー映画『絵を描く子どもたち』【1956年:岩波映画製作所(上映時間38分)】の一部を上映して、解説を交えながら戦後の図画工作教育を考察します。

○ 映画ナレーション

「小さいときは落書きをするのが好きですが、それが表現力として育つにいたるには、いろいろなことがあります。新入生がお母さんたちの心づくしの着物で集まってくる春、今日からわたしたちの学校教育の1年が始まります。

初めての図画の時間。紙を配りながら気がついたのは、みんながひどく緊張していることです。紙をもらうと他の人はどうするかをまず確かめています。先生を前に自分の気持ちそのままに描いて叱られはしないだろうかと恐れているのです。他の子供とも、まだ友達の親しみはありません。

なかには家で暴れていたそのままらしい子もいます。不安そうな子も励まされてようやく描きだしました。まだ教室の雰囲気がつかめない感じです。ところがようやくみんなが元気になりだしてからも、まだ描けないでいる子供が一人いました。心の中では興味があるようなのですが。話しかけてみても応じません。とうとうこの日は白い紙のままです。授業はだんだん進んでいきます。この頃の絵はいずれもよく似ています。おずおずとして型の中にとじこもっているのです。しかしすでにその中には個性の芽生えが隠されています。木だけをよく見ています。男にも負けない、気の強い女の子の絵。その子の言うなりになっている感じの、この作品。しっかりした、そしてなかなかおしゃれな子。しかもまだ子供の気持ちは固まっていません。実に柔軟で変わりやすいのです。この子は最初からクラスで一番元気で乱暴だと思っていました・・・」

この映画はその年のキネマ旬報で第1位になっています。社会的にも評価されて全国の劇場で公開されました。この映画を観たときの印象を、「私が20代の頃に観たときは、はっきり言ってその良さや、位置付けが全くわからなかった」と振り返りながらながらも、映画では子どもが日々変化する様子から、ただ単に絵を描いている映像だけではなく、文化史的な側面も垣間見えると補足。さらに映画で図工の時間が取り上げられた時代背景について解説します。

「なぜ、その当時に子どもを描く映画がこれほど社会的に受けたか。いまの時代に同じテーマで図工の時間を映画化しても話題になることはまずありえないと思います。でも当時は、子どもが絵を描くことについて、非常に大きな期待感というものを持っていたと思われます。当時は民間で創造美育運動が非常に大きなムーブメントになっていました。これは『戦後の子供達の教育は我々教師の手でやろう』という、いわば自主自立的な運動体でもありました。そこで標榜されたのが創造であり創造性を育むことです。子どもが絵を描くのももちろんそうです。この映画、1年生が入学して、当初おずおずして絵を描けなかったっていうナレーションがありました。それが10ヶ月後にはものすごい絵を描いてくるわけです。とにかく子どもの生活というものと、そして子どもには何よりも心があるんだ、そしてその心、内面というものがあってやはり外界との相互作用の中で形成されていきます。そしてそれがこれらからの日本の未来を築いていくんだという認識が戦後のこの時期にありました。また世界的には、教育的な観点だとギルフォードが提唱した創造性教育、創造性心理学が盛り上がっていて、第二次大戦が終わった後の創造をどうするかという課題が世界的に社会全般としてありました。そのような大きな流れもこの映画の下地にはあります」
と説明し、このような時代背景も含めて指導要領の中に創造的表現が入ってきたようだと考察します。

学習指導要綱にみる図画工作教育の変化

水島氏は学習指導要綱にみる図画工作教育について、説明していきます。 「昭和43年、高度成長になると偏差値のこととか、質より量を重視した教え、教科書が厚くなってくる時代です。先ほど小泉先生が様々に理論的に説明してくださった様な、いわゆる知的層だけを教育していく流れというのが、このあたり非常に顕著になってきます。戦後と高度成長期の「創造性」の違いは、戦後は評価自体の価値とか意味とかは述べられていなかったのに対し、高度成長期の創造性の特徴は、創造活動そのものが造形教育・図工教育・美術教育の根幹にあると述べている点です。

そして昭和52年ころになると、ゆとり教育に移行してさまざまな取り組みがはじまります。詰め込み教育に対しての反省です。ここで目を向けなければいけないのは造形的な創造活動の基礎を培うというような文言が出てきたこと。また「喜び」という言葉が現れます。基礎を培うだけでなくて、そこにやっぱり人間的な、情動的な、情意的な、その「喜び」というものが一体となったところに、価値が生まれてくるということが謳われています。昭和52年度版というのはそういった意味である意味画期的だったと思います」

「私が関わった学習指導要領の平成元年版から10年経っても造形的な創造活動というところで変わっていません。そして平成19年度版でも創造活動として残っています。教育基本法改正ということが事案として出てきて、平成18年にそれが形になってきたのです。」

この改正について「豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成ということが教育の根幹だとうたわれた点が重要だった」と強調します。しかし時が経ち、現在の学習指導要領は、それ以前とは様子が違ってきているとも話します。

「現在は、学習指導要領の性格自体が変わってきています。いわゆる評価が、創造活動なんだという指針が少し後退しました。そして態度的な評価そのものが創造的であり、創造的につくって、あらわしたりする方法論的な意味での創造という用法がまま見られます」
また現在の学習指導要領が徹底して資質能力の育成という観点で表記されている点に理解を示したうえで、さらにこの基礎となっている教育基本法について注意を喚起します。

「一人ひとりの子供たちの見方という意味では資質能力の育成という観点では大丈夫だと思います。しかし、教育基本法のなかで「教育全般が創造性を教育するのである」ということがうたわれており、教科そのものが創造性に基づいているということを自覚して運用していくということが必要になると思っています。」

「創造」と、これからの教育

創造性は今後どのような方向へ向かうのでしょうか。水島氏は「創造」という言葉が一人歩きしてしまう特徴をあげながら教育の在り方について「具体的にもっと子供たちのためにどういう理解が必要なのかといえば、単純に言えば美術することがやはり創造なんだということです」とし、美術でよく用いられる「ブリコラージュ」をキーワードにあげて、 より実践的な「創造」について述べました。

「ブリコラージュ(Bricolage)はありあわせのもので造る、何かその場をやってく、試す、という意味です。美術では非常によく使う手段で、その場その場でよりよく生きたい、よりよく何かしたいという観点に基づきながら創造していく行為です。これは人生のいろんな部分に援用、応用、思考そのものに発展できる可能性があると思います。「ブリコラージュで世界をつくりかえる」という、これは色々な方がする表現です。」

また現代の特徴とも言える科学や合目的的、一義的、ほかのものに援用不可能いう構造性の高い社会にも疑問を投げかけ、視点を変える重要性を説きます。
「やはり一回こう突き動かしてみることが別のものの見方をするためだけでなく、子ども達がよりよく生きるために非常に必要になってくる部分なのだと思うのです。」

創造性の発生源

美術教育の未来を見据えながらも、創造性の発生源について考察を深めます。そこでは観念的な思考に陥りがちな議論を危惧しつつ、身体感覚を基に根源的で創造性あふれる学校教育とは何かを問うていきます。

「美術全体や美術教育を問わず、想像力神話のような哲学的な論議ではなく、先ほど小泉先生も仰っていたように子供の身体性とか感覚、肉体からスタートするしかありません。このことをきちんと捉えていく必要があると思います。それから教育の中でも目的手段、合目的性が一つの大きな落とし所になっていると思います。子供達が世界と一体になって『わあ、楽しかった』とか、人間らしい感覚、感動にもとづいた学校教育というものをやはり据えなきゃいけないし、そこからしかやはり創造性の教育が始まらないと考えます。」

その具体的な例として水島氏があげたのは「造形遊び」。
「造形遊びは昭和52年の学習指導要領の改訂の時に位置付けられました。児童の遊びが持つ教育的な意義と創造的で魅力的な雰囲気に着目しました。いろいろな材料や場所にかかわり造形的な創造活動を楽しむ。何かをつくるというような結果を重視するものではなく、活動そのものを尊重します。これらを通して主体性のある児童を育てることが狙いであることが示されています。」

「私の同僚のお孫さん2歳のお話しですが、公園に遊びに行って、その子が、木の切り株を見つけて、そこに松ぼっくりや、葉っぱを乗っけたりして遊び始めたそうです。エピソードとしてはこれだけですが、ここで何が読み取れるかというと、おそらくその子はとても心優しいお子さんで、切られた木さんかわいそうみたいに想った。それから古代の人たちもよく行っていますけが、何かそういう命に対する畏敬の念とか、そういったものを、近くにおちていた松ぼっくりを並べてお供えしてあげようみたいな感覚や、それからお父さんがふだん使う机の上でのお仕事みたいなものが、おそらくその子の視線から見れば、お父さんいつも何か台の上ですごいことやっている。そんな感覚があるのかもしれません。そんなことも含めて、この切り株の上にいろんなものを自分なりに工夫しながら置き始めたというような事例です。これが、造形遊びということですね。何かテーマが決まっているわけではなくて、そこに素材があって先ほど言ったブリコラージュが、自分のある経験とか、感覚みたいなものをもたせながら活動が展開していくのではないでしょうか」

またアンドレ・ルロワ=グーランを引用し、素材感に着目した彼の主張には美の起源に対する本質的な内容が含まれていると言います。

「先日まで上野の国立博物館で開催されたラスコー展ですが、壁画を描いた様な人たちが自分の洞窟の中に、黄鉄鉱か何かピカピカ光っているものや、面白い形のものとか持ち込んでいたようです。色とか形とか素材感ってものに、興味を持っていた。これは多分間違いないだろうと思います。おそらくグーランの主張としてはここにおそらく美の起源があるのではないかというようなことを言っています。グーランの指摘っていうのは本当に本質的なところがあって、やっぱり奇妙な形の持つ美の感情とか、そこ大事なんだよっていうようなことを述べています。何か面白いもの、美しいものっていう感情がこれはやっぱり人間の心の中にしっかりと刻まれているのでないか、そう指摘しています。

見立てと言う言葉がありますが、古代の人たちは、これが何かに見えてくるという感覚があったはずです。出雲大社がある宍道町にイヌイシ、それからシシイシというのがあります。ちょっと睨みつけているようで、睥睨しているような形で大きな石が配置してあります。この『オオカミ』や『イノシシ』などの見立ては、おそらく古代から変わることはなかったのではないかと考えます。」

さらに小泉先生の講演内容にもふれ、創造性のはじまりについて議論を深めました。

「小泉先生の話にもあった赤ちゃんが手伸ばし行動にもつながってきます。そこには根源的な能動性、形成力があります。世界に関わろうとする、基本的に根っこの部分は必ずそこにあるはずです。そういう根源的に世界と関わろうとする、踏み出そうとする、そういったものもやはりひとつの創造性の根源に据えるべきで、決してひとつの方法論でもなんでもないということだと思います。」

教育の根幹になる「出会い」・「経験」・「連続性」

創造性の前提は経験にあるとしながらも、経験を直線上に望んでいのではなく、それを元にしながら多様な選択性とか多様な価値体験とか経験が一つの大きな教育の原理になる、と水島氏。さらに創造性の根幹にも美術教育の課題として「出会いを取り入れたカリキュラム」の必要性を説きます。

「多様な価値体験とか経験を、過去・現在・未来を通して橋渡しする。過去があって、未来に繋がるわけですが、いまここにいるその時空間が重層化するようなことが、ひとつの教育、それから美術教育の課題になってくるということを思っています。

いまの教育はDO感覚や何かするということが元になっていますが、それらは存在する面白さとか、能動性にも関わってくるわけです。そういったものが一つの教育の根幹になっていくべきでしょう。
また現在のカリキュラムは、「出会い」ということについては非常に無自覚。教育現場はある一つの偶然、奇跡的な偶然な場のはずです。我々はそういう偶然の、積み上げの中で個人の人格を形成させていると思います。その「出会い」をカリキュラムの中に大きく位置付けていかなければいけないとも思います。中等教育以上になったら連続性の在り方が、やはり問題になってくると思います。直線的な連続性ではなく、過去と現在、先ほど重層化という言葉を使いましたが、様々に交差させていくことが必要なのだと思います。」

さらに図工教育における出会いとして、素材や材料をあげ「素材を揃える重要性。これを本当にいま考えなければいけない。鉛筆と画用紙とクレヨンあれば事足りるってことじゃないと思うんです。」と促しました。
また自身がイタリアで客員教授として勤務していた時の経験からも素材を揃える必要性を考察していきます。

「イタリアでモランディ見ると私、本当にぞくぞくします。なぜ突然モランディの絵をお見せしたかというと、風土に左右されていること。環境に影響されていることです。これは、すごく大事な要素とだと思います。で、ボローニャの街並みが「ああ、これモランディそのものだ」と思いました。黄色が効いていて、赤いレンガ色みたいなものが基調色になって、あ、モランディの絵そっくりだなと思いました。
ミケランジェロのピエタ(サンピエトロ寺院のものが有名ですが、ミケランジェロ最後の作品は、このロンダリーニのピエタ)の実物をはじめて昨年観ました。本当にこれ感動しました。十字架にかけられたキリストが十字架からおろされて、マリア様が我が息子を抱きしめている像で、ミケランジェロ最後の作品と言われています。未完成です。
その荒削りの部分が逆にいろんなことを情動的にかき立ててきます。私はこのキリストの足を見て、本当に涙がでてきました。今でもちょっと、思い出して泣きそうなんですが、本当にこの足、質感とかもちろんフォルムもありますが、ここだけ本当に入念に作り込まれているっているのを観て、あ、美術がここにある、と感じました。創造が生まれるっていうことでしょうか。未完なので、削りながら時間がなくて途絶えてしまったわけですが、そんなことも含めて、やっぱり美術というのはモノなんだなって、でそのモノが語る、すごく語ってきます。1時間ぐらいずっと見入っていたんですが、私自身そんな経験、だいたいもう数秒で過ぎちゃうほうなので、びっくりしました。まあそんなことを思いました。

さてレッジョ・エミリアのお話しです。
ボローニャ大学の幼児教育の先生に、「うーん、レッジョはねえ、10年前で止まっているよ。水島さん行っても無駄だよ」みたいなこと言われましたが、出かけました。

私自身は大変参考になりました。とてもすばらしい実践をしていると思います。
レッジョ・エミリアにレミダという組織があります。これはレッジョ・エミリアにあるというよりも世界中に15~17になっているかもしれません。レミダは、いわゆるリサイクルセンターです。廃材をいろんな企業体から集めてきて、で、それをストックしておく場所です。単なる工業廃棄物があるっていうことではなくて、いろんな色と形のもの、やわらかいものかたいもの金属、木、本当にありとあらゆる万物がある、そんな感じです。とにかく子供達が見ても楽しめるように、この世界は素材でできているんだよ、じつはその素材ってすごく面白いんだよ、と思わず子供達が手を伸ばしちゃう、そんなディスプレイ方法にも力を注いでいます。

私が出会った子は、もう本当にずうっと、いろんなバケツの中のものを、ああでもない、こうでもないなんてやりながら見ていました。
日本では、一人ひとりの先生方は例えば教室の片隅を使ってやってらっしゃるんですが、社会的な制度としてこんなものがある社会がいいなあというふうに単純に思いました。

日本でもぜひ考えたほうがいいと思います。
このボローニャのレミダの場合は、5月になるとレミダデーというお祭りがあります。いろんな素材を使ってお店を出したりパフォーマンスやったり、地域の人が集まって楽しんでいます。ミラノにもレミダはあります。これは子ども美術館と併設をされています。ここはブルーノ・ムナーリ展が常設されています。
学芸員の方がいろんなとこから集めてきたもの、それから企業が持ち込んだもの、それを色、形、いろんな素材ごとに分けて、ボックスの中にいれておく。ここの場合はですが、いわゆる積み木的にいろんな材料を集めてきて、使い終わったら学芸員の方が元に戻す、そんな運用をしているそうです。

日本では、小学校の教育の中で金属を扱うっていうのはまずありません。
金属、大人のもの!みたいな感じかもしれません。ですが、金属作家の方の紹介をしたのち、小学校で金属を使った造形を行なったら、面白い展開をしていました。あ、これ絶対楽しんでやっているな。というのがよくわかります」

教育は常に時代に左右されるものでもあります。だからこそ、水島氏の言う人間らしい感覚、感動にもとづいた学校教育を原点とし、どのような時代であっても創造性が失われることのないように努めるべきなのではないでしょうか。

『「発想する底力」の育み方』

博報堂生活者アカデミー ゼネラルプロデューサー 中村 隆紀 氏

第一部講演ラストを務めるのは、博報堂生活アカデミー/ゼネラルプロデューサーの中村隆紀氏。博報堂入社後約20年間、広告クリエイティブに携わり、その後は研究開発局と生活総合研究所でナレッジ開発、そして現在では生活者アカデミーにて創造性の教育プログラム構築・実施を行っています。そんな中村氏の講演では、昨年秋に刊行された著書タイトルでもある『発想する底力』、創造性の育み方についてお話し頂きました。

受講対象者は、次世代のビジネスリーダー

私たちは独自の教育プログラムを、主に30代から40代の経営幹部候補や、技術開発・新規事業開発を牽引している方など、次世代のビジネスリーダーに提供しています。

博報堂が発想の教育機関をつくるというと、広告クリエイティブを教えるものと捉えられがちですが、広告に関してはまったく教えていません。組織の真ん中でイノベーションを期待されて、さまざまに苦労されている方々の創造性を持ち上げていきたい、そのお手伝いをしたいと思っています。なぜフレッシュな新人や若手を受講対象にしないのかというと、職業人は経験を積んでいくうちに、何度も壁につき当たります。目先の業績を求めて既定のプロセスや表層的なスキルどおりにやっても、なかなかブレイクスルーにならない。会社で学んだ従来のやり方が効かない。そういう経験をされた方々にこそ、クリエイティビティの価値を考えていただくのが、私たちのプログラムの狙いです。既成の職能を越えた異質な創造性を磨くには、どうルーティンからはみ出せばよいのか。また業績ばかりではなく、これからの組織に求められる社会創生力を培うにはどう仕事と向き合えばよいのかを啓発していこうというのが、生活者アカデミーの教育志向です。

形式知と、暗黙知的な感受性

*クリエイティビティ、創造性といわれるものをフェーズに分解して、「発想(気づき、課題創造)」「着想(コンセプト、解決強度のディレクション)」「構想(解決ストーリー、フレームワーク)」「実施(実効案、品質コスト管理)」・・・と羅列していく中村氏。

モノづくりやコトづくりは、実際はこのように順序良く、一筋縄にはいかないのが厄介なところです。いつも行ったり来たり、泥沼の中です。たとえば発想して実現性の検証、それを叩き壊してまた発想と、ごちゃごちゃに揉み合って、絡んでいくあいだに創造性の資質が磨かれていくのだと思います。
課題解決のチャートや定型的なプロセス、技能スキルとかハウツーに沿っていけば、ある程度の結果はスピーディに出ます。特にコンセプトが定まって以降の実行フェーズでは、さまざまな業務進行の技法は、確かに効率効果を持っています。ところが、発想や着想という初動の部分では、どうしても暗黙知的な知覚センスこそが大切になります。つまり、その人の感受性、それぞれ個人が持っている生活背景、価値観や嗜好がものを言わないと、オリジナリティのある質の高いアイデアは生まれにくいのです。創造性をめぐる仕事の中には、形式的・科学的な効率思考が有効な面と、暗黙知的な感受性が有効な面が混在しています。

これまでのような、経済合理性をとことん追求していく時代には、形式至上主義というか、同じやり方を教われば誰でも技能が上がり、そこそこの成果はすぐに出るはずだという、人材の効率的・大量生産的な先入観が強くはたらいていたように思います。一方、個に核心がある暗黙知的なセンスというのは、人材育成の現場からすれば非常に教えにくい。教えにくいことは、人材量産プログラムに向かない。そのため創造的な感受性の習熟は、経済優先の時代の主要科目ではないとされて、相対的に軽視されてきたようにも感じます。
多くの企業は、かつて組織内に職人芸、暗黙知的なセンスの持ち主を多数抱えていました。社内の異能の持ち主ができることを簡易に形式化して100人ができるようになれば、業績は上がるでしょうが、いまは、そもそも暗黙知を持っている突出したタレント自体が滅亡しはじめているという危機感を、経営トップは強く感じていると思います。

人間は、何をディープラーニングすべきか

形式やハウツーを習得して、情報を迅速に処理できる能力を「あなたは優秀ですね」とみなしがちだった私たちですが、いまやこうした能力は人工知能をはじめとするテクノロジーで代替できますよ、と言われはじめています。第4次産業革命――産業革命というと、工場で働く方などのブルーカラー的な仕事が自動化するという先入観が強いようです。しかし、むしろこれから激変するのは、業務進行管理、マーケティングリサーチ、経理や総務、経営戦略の一部など、ホワイトカラーの中間層が担ってきた仕事です。つまり、これまでの社会が「良し」としてきた経済効率的な職能の多くが、テクノロジーに受け渡されていきます。
人工知能がディープラーニングという手法で学びを深めて、どんどん有能になってくる。じゃあ、私たち人間は、何をディープラーニングすればいいのか。私は、そこがいま、教育が一番考えなければいけない根本課題ではないかと思います。そして私たちは、その答えを「創造性」だと考えています。

「発想の体質化」

社会人に対して、創造性の知をどのように提供したらいいのか。私たちは発想の形式や技法をあたまの知識として提供するのではなく、「発想する体質」を鍛錬することではないかと考えました。先ほど水島先生が新しい学習指導要項には、 “楽しく豊かな生活を創造する態度を養う”と書かれているとおっしゃっていましたが、クリエイティビティというのはスキルではなくて、体質とか態度――世の中の事象との向き合いかたではないかと思います。

―①身体で覚える。五感を駆動させる性

ではどうやって「発想の体質化」をはかるのか。本日、小泉先生からも水島先生からも“身体性”という話が出てきました。私たちも身体で感じ、覚えることを重視する教育プログラムを実施しています。創造性を学ぶというのは、ギターの運指を練習したり、野球や剣道の素振りをしたり、あるいはダンスなどもそうですが、繰り返し繰り返し、身体に覚え込ませていくという習熟がとても重要だと思います。身体で覚えるということを、教育は軽視したり、シラバスを追うあまり、諦めてこなかったでしょうか。私たちのプログラムでは、<自分の住んでいる街を、未来の兆しとして改めて見直してみましょう><周囲のふとした会話を収集して、人と人との関係性を考えてみましょう>といった、まず自分の目で見る、耳を澄ませる、自分の五感を全部駆動させるフィールドワークを取り入れています。
また、発想の工程もアウトプットもすべて手書きで、自らの手で思いを書き出していただきます。こうした作業を通じて、受講生からは『久しぶりにたくさん字で考えました』『一見無駄な書き散らしが、最後に光ってくることってあるんですね』というような感想が出てきます。これは、子どもたちではなくて、30代から40代のビジネスリーダーから出てくる言葉です。いかに手やからだでものを考えていなかったか、身体を使わなくても仕事はできてしまっていた、ということの証だと思います。

―②創造的粘着性

先ほどのギターや野球の練習にもつながりますが、発想の体質化のために、とにかく何度も何度も繰り返し、粘って粘って考え抜く。異なる見方をぶつけ合って、編み直していく。私たちは「創造的粘着性」と言っていますが、一番アッパーのプログラムでは個人ワークとグループワークを何回もしつこくやります。創造性を磨くには、まず量をたくさん考えることです。素振りをたくさんすることによって、チャンスに体が反応するようになるのと同様です。
まず、自分自身の生活を改めて見つめ直し⇒そこに隠れている潜在的な事象の意味を発見していく⇒そして、それは時代の中でどういう流れを示唆しているのかを読み解いて⇒さらに未来はどうなっていくかと考える。非常にシンプルな「思考の環」ですが、考える材料を替えながら、この環を何度も回っていきます。普段、身の回りの事象をスルっと理解しようとすると、“多様性”や “ 自己承認欲求”など、すでにテレビや雑誌で言われているような概念に行き着いてしまいがちです。しかし何度も粘って考えていくうちに、誰かが言ったり、社会常識になっていることは振り落とされていきます。そうするとありきたりの通念が消えて、自分の感受性を使った独創が浮かんでくる。シンプルですけれども、こうした作業を繰り返して、自分だけの未来仮説にたどり着いてもらいます。
受講生からは、『発想とかイノベーションという言葉を平気で使っていたが、いかに表層的な分類分析だけをしていたのかというのがわかった』『面倒くささの先に、豊かさがあるんだ』『ベンチャーが長いので、自分の考え方はてっきり仮説思考かと思っていたけれど、単なる思い付きと過去の文脈の編集にすぎないことがわかった』というような声が出てきます。誰もが忙しい毎日を過ごしていますが、私たち大人が粘らなくなっていた、粘らずに忙しく仕事していた、ということかもしれません。

―③自分の殻を脱ぐ

発想体質を鍛えていただくために、もうひとつ大切にしている志向があります。普段の仕事のやり方や、自分の役割という「殻」を脱いでもらうことです。
通常の業務からは出てこない発想を促すには、業種や職種、それぞれの立場をまぜこぜにして、いつもの手続きが全く通用しない環境を作ることです。たとえば、自動車会社の技術開発の方の隣りには、新聞社の方がいる。さらにその隣りでは、NPOなど社会起業家の方が思いもしないことをしゃべっている。向かい側では官公庁の方が違うことを言う。ひとは普段の業務プロセスとか組織文化に、かなり思考が縛られているものだと思いますが、こうした場では、それが通用しません。そうすると、ひとりの生活者、ひとりの人間としてディスカッションするしかない。そんな状況に追い込むというと変ですけれども、混沌に身を置いていただくと、プライドや思考の武装がどんどんはがれて、人間の本質や社会の豊かさという「根」を話すというところに届くのではないかと思っています。
弊社のOBで、社会貢献活動として小学校にコピーライティングの授業を提供していた先輩から聞いたのですが、教室では誰かがまず答えを言って、その次に誰かがそれに追随する。たぶんそのクラスで一番優秀な子が三番目ぐらいに正解風の意見を言って、誰かがそこにチャチャを入れる。子供の頃から、揉めないための、異物になっていじめられないための役割がカッチリできているんじゃないか。そんなクラスいくつも見てきたという話です。
こうしたロールプレイやルーティンを破壊しないと、独創性どころではないと思うんですよね。

私たちのプログラムに参加した皆さんがおっしゃるのは、『いかに狭い世界で仕事や生活をしていたのかが分かった』『自分の常識がひっくり返りました』。また、いわゆる異業種交流の名刺交換会みたいなものではないので、『プログラムを通じて人生の価値観にまで踏み込んだ議論になる』という反応もいただきました。殻を壊すという意味では、『そんなことまで言っちゃっていいんだ、発想する勇気をいただきました』という声もあります。殻をかぶったままキレイごとだけ言っていてもアイデアなんて生まれないですよ。どんな環境を作るかというのも、教える側、促す側としては大きなポイントだと感じます。

「生活者発想」

さて、お話しした三つ。「身体性」、「粘着性」、殻を脱がせるという「脱殻性」、この三つの発想する態度・体質は、何を素材にして鍛錬していけるでしょう。独創と独創を掛け算する共創のコモンソースを何にするか。私たちは教育のフレームに生活者発想という中核を構えています。発想を体質化するには、高度で難解な教材は身に沁み込みにくいものです。誰もが生存環境としている日常のありふれた生活体験こそが、何よりもクリエイティブマザーではないか思います。 通常の仕事では、課題に関係するデータ、専門スキル・知識、それからメディアから入ってくる情報なども使います。しかし、それ以外の日々感じ取っている世の中の事象は、ありふれた出来事でしかないのでしょうか。人々の生の声、日々のニュース、五感、地域にある暮らしの知恵や、自らの記憶、生活体験・・・それらを全部使う。発想の資源を自分の職業や任務によって限定しないではじめてみよう。そんなプログラムを起こしました。なによりも、自分自身の暮らしに対する主体的な感受性こそが、常にアイデアのチャンスを感知する「発想の底力」のはずです。

―①例:生活の断片がヒントになる

例えば、受講生には自分の家の周りから約半径500m 内で「未来のネタ」を探してくださいとお願いします。毎日のありふれた光景に、実は新しい社会の争点が潜んでいないか、新しい常識とか慣習が、自分の身近にこそ芽生えていないか探してもらいます。
はじめのうち、殻の固い方から出てくるのは、『仕事のヒントなんか近所には何もありませんよ』という疑心暗鬼です。
*スライドには、日常のサンプルとして、ベンチに座るお年寄り二人の後ろ姿。
皆さんの近所でも、こんな光景が見られると思いますが、お年寄りが暇そうに過ごしている写真です。このお年寄りの心情を想像してみてください。 私たちの会社で学生のインターンに同じ質問をしたんですが、ほぼ十中八九、この人たちはやることのない、孤立した高齢者だという答えが返ってきます。メディアの世論みたいなものに合わせて、答えが出てくる。でも、この二人は定年後に週三回だけ仕事をして、今日は何もしない幸せを味わっているのかもしれない。あるいは、引退して家にいるようになると、奥さんとずっと顔を合わせてないといけない。しょっちゅう小言を言われるから、ちょっとプチ退却をしているのかもしれない。または、お前、足の怪我どうした?というように、行政にはできないようなささやかな見守り合いをしているのかもしれません。街のベンチは、お祭りや消防訓練など、町内会の青空会議室になっているかもしれない。こうした「お年寄りの物語」の多様なイマジネーションによって、企業や行政が提供できるソリューションが全部違うのにお気づきですか。暇そうな老人を見れば、なんでも孤立した高齢者と決めつけるのではなく、こうした生活起点の発想から、クリエイティビティの可能性が広がることを、私たちは講義の中で繰り返し伝えています。

ある受講生は、自分の住む街から回覧板に貼ってある自転車の乗り方教室のポスターを見つけて、『自転車の乗り方にお金を取って教える人と、お金を払って教わる人が存在することを知りました。あらゆる知識経験を商売に変えることは素晴らしいとは思いますが、どうなんでしょうね』とコメントをつけてくれました。そこに、教育の無償化が進んでいるけれども、本当に無償で教えるべきことは何だろう、という問いを打ち返します。別の方が、『親が子供にものを教えない時代になっている。本当に教えるべきことは、生活の仕方かもしれない。親も学校もやらないんだったら企業がやるべきかもしれませんね』と乗っかります。さらに、『大人こそ、生活教育を受けたほうがいいんじゃないか』というようなコメントも出てきます。こうした切り口は、企業が自分のブランドの消費者を育てるような、新たなサービスの開発につながる可能性があります。近所にある回覧板の紙切れ一枚でも、アイデアの発想源になるんです。このようなことは、会社のパソコンで市場データを見ていても、なかなか思い浮かびません。

―②例:ありふれたニュースから、時代を展望する

もうひとつ、事例をお話しします。私たちは日々、さまざまなニュースに接しています。それを改めて、時代の意味として見直してみましょうという課題を出します。情報の奥にある人間の欲求の動きや、時代の潮流を考えてみましょう。
例えば、受講生にはこんなニュースを題材のひとつとして、渡しました。
<洋服やアクセサリーなどの作品をインターネットで販売する “手作り作家” が増えている。専門サイトも活況だ。出品者の大半は女性。自分のために作る趣味から、起業につながる道がみえ始めた>(2015年9月13日 日本経済新聞電子版より)
このニュースは、新聞社のサイトを読めば当たり前に手に入るニュースです。ただ、このニュースは自分の仕事にあまり関係ない分野だと、受け流してしまう方も多いかもしれません。
女性の受講者から出てきた切り口なんですけれども、『女性の活性化、特に企業の中での処遇などは確かに問題です。でも、こうした人たちを見ていると、本当は職業の選択肢って、女の人の方が自由になっているのかもしれない』と、世の中でふつうに言われていることとは、少し違う解釈が出てきました。何でもかんでも正社員になって活躍することだけではなく、趣味と実益だねと言われてきた分野、ここがもっと大きな経済活動になったら、そもそもGDPという考え方や産業構造も変わるかもしれない。こっちのほうが、本当の働き方改革かもしれない。これは、みなさんの仕事に、本当に関係ないニュースですか。
まず生活の中にある事象を感受して、一歩立ち止まって、そこに潜んでいる意味を見出す。世の中の流れと関係づけていく。そうすると、他人と同じように考えていたのとは異質な未来が見えてくるんじゃないか。世の中で言われている通念をそのままコピペしたり、リツィートするだけではなく、自分の本心は、本当は何を感じているのか、浮かび上がるまで考えて削っていくのが、創造性のトレーニングの根幹だと思います。

毎日の生活で目にしている紙切れ一枚、ニュースのかけらに、社会や暮らしの根本を発想するチャンスが潜んでいます。こんなこと考えなくても仕事なんかできてしまうんですけれども。ただ、アイデアというものは、目の前の課題に対してだけ都合よく出てくるはずもありません。日常的にいろいろな情報に思いをめぐらし、発想を体質にしているから、目の前の個別課題に対しても、創造性というものがはたらいてくると思うんです。
今日は美術の先生も多いのでこんな例え話ですが、ピカソという偉大な画家も、キャンバスの前に向かった時だけ創造性が働いていたわけではないはずです。女性とご飯を食べているときでも、なんかこの子の顔は三角形っぽいなとか、いろいろ感性を働かせているからこそ、キャンバスに向き合った時に、それが発露される。仕事の局面、局面だけで都合よくクリエイティビティがはたらくということはないような気がします。

―③全人格で発想する

もう一つお話ししたいのは、仕事から趣味まで自分の全人格が、ビジネスのシーズ、クリエイティブのチャンスになってくるということです。
たとえば私、中村という人間は職業人としての私もいますが、56歳のおじさんとして少し衰えた私もおりますし、母親が患っているので介護人としての私もおります。近所の居酒屋さんの常連としての私もいますし、今ちょっとマンションの理事長をやっているので、近くの人たちとの付き合いが少し濃くなっていますが、そうした私もいます。みなさんも同じように、多様な生活上の人格をお持ちだと思います。
でも、こんなにたくさんの「私」がいるのに、アイデアやイノベーションを考えようとするときに、どうしても職業人としての自分に閉じこもって考えてようとしてしまいがちではないでしょうか。
ここに(*スライド)、ジョン・ハンケさんという方がいます。彼はいま、ポケモンGO!の開発者として知られる方ですが、もともとはグーグルマップの統括責任者をやっていらっしゃって、そこからまずイングレスというゲームを作られました。このゲームは世界中の人々が青組と緑組に分かれて、今のポケモンGO!みたいに屋外にあるオブジェなどに隠されたアイテムを取り合っていきます。その点をつないで、緑と青どちらが陣地をとれるかというのをワールドワイドで戦っているゲームなんですが、その技術を元にしてポケモンGO!ができています。ハンケさんは、何を動機にこうしたゲームを開発したかというと、息子さんがずっと家に引きこもってゲームをやっていた、この子を外に出すためにはどんなゲームがあったらいいかと、父親としての自分が発想の起点だったそうです。
もう一つの事例なんですが、千葉県にいすみ鉄道というローカル線があります。1987年にJR東日本から第三セクターに引き継がれたのですが、うまくいかず、2009年に社長を一般公募してリニューアルしようという大きな賭けに出ました。そこに外資系の航空会社に勤めていた鳥塚さんという方が就任されました。この方は、なによりも鉄道ファンなんです。鉄っちゃん垂涎の、キハ52とかキハ28という車両を購入して、そこをレストランにして土日運行する。それから線路の枕木のオーナー制度というものを作った。鉄道ファンにとって、たまらない聖地をこしらえました。ついに、運転手の訓練生まで公募するんですが、訓練費を含めた700万は、応募者の自己負担なんです。それでも憧れのディーゼル機関車の運転手になりたいと応募が多数あるなど、圧倒的なV字回復を起こされた事例です。鳥塚さんも、別にビジネスライクな収益計画を出発点に考えていない。鉄道ファンとしての自分の想いから、イノベーションを起こしていったわけです。

ビジネスの世界、あるいは教員の世界でもそうだと思いますが、ほとんどの場合、仕事というものは客観性を求められて成り立っています。働くということは、自分の思いを押し殺さないとできないことなんでしょうか。
それから、たとえば高齢化社会について調べようと思えば、ネット上にいくらでもデータがありますが、実は隣のおばあちゃんが何に困っているかわからない。へたすると、年をとった自分の親が何を考えているのかわからない。客観世界と主観世界が、分断されている世の中を私たちは生きている。さらに前例がないから駄目とか、科学的でないと通らないとか、どうも働けば働くほど、自分の想いや身近な暮らしに感じる主観が矮小化されていくような感覚はありませんか。
ご紹介したような、ジョン・ハンケさんにしても鳥塚さんにしても、真ん中にあるのは自分の想いです。そういう事業は強いと思いますし、アイデアも太い。

私たちのプログラムのフレームを簡単にまとめます。発想の材料として、日々のありふれた生活をクリエイティブのマザーとして見直そう。それから職業人としてだけではなく、生活者として全人格で発想しよう。この生活者発想という中核から、暮らしの断片に潜む意味を見つけ出し、時代や未来を考える。身体を丸ごと使って、日ごろの凝り固まった仕事のやり方を脱ぎ捨て、粘りに粘って独創的な仮説を出そう。これを、知識としてのスキルではなく、体質にして、発想の底力鍛えようというのが、プログラムの輪郭です。

「ライフモデル」を根本に持つ

プログラムでは、一回ごとに材料を変えて、これからの育み、これからの幸せ、これからの欲求、これからの関係・・・未来の人間の有りようを繰り返し考えていきます。そして最終アウトプットはそれらを統合して、豊かさの「ライフモデル」を作っていただきます。ビジネスモデルではなくて、自分の根元に、主体的に考えた未来の生活像という大きなビジョンを持ってほしいんです。
先ほどご教示いただいた文科省の新学習指導要項 “楽しく豊かな生活を創造する態度” ですが、そもそも楽しく豊かな生活ってなんだろう。そこを根本的な「知」として考えないといけないような気がします。
たとえば美術の授業なら、<椅子を作りましょう>という課題があるとしますよね。どんな椅子をどんな素材で作ろうか。いつ、誰が使うものなのか。しかしまず、<そもそも椅子ってなんだろう?>という質問を考えなければいけないと思います。それが根本知です。そこを通るか通らないかによって、発想の可能性は大幅に変わるはずです。
話を戻しますが、この「ライフモデル」を腹に持って、受講者それぞれが職場に戻り、これからの自動車はどうなるんだろう。これからのヘルスケアはどうなるんだろう。これからの金融は・・・と、それぞれの仕事で抱える個別解を考えてみてください、というのが私たちのプログラムによって受講生が持ち帰るアウトプットです。

「ライフモデル」は、生活者としての自分が仮説として持つ未来のテーマと、それに沿って、衣・食・住・学ぶ・働く・遊ぶ・つくる・交わる・健康・命(生まれ方や死に方)というカテゴリーについての具体的な想定シーンを書き込む構造で成り立っています。
私の「ライフモデル」をお話ししてみます――「シルバーズ・ナレッジ~高齢者の知恵による、生活創造性の復興~」――私はこんな未来を考えています。いま高齢者は、社会のお荷物のようにみなされがちですが、特に75歳以上の後期高齢者の持つ知恵こそが、日本のアドバンテージをつくる、これからのクリエイティブ・シーズになってくるのではないかと考えています。衣・食・住、互助、おもてなし、死生観、勤勉さ。戦前の日本では当たり前だったような奥ゆかしい生活マナーが、これから世界の敬意と憧れを集めるアトラクティブネスではないか。
私たちはずっと、漢字から仏教から、アイビーファッションからイタリアンフードまで、外からくる知恵に憧れて生きてきました。しかしこれからは、むしろ内発の知恵で、世界から信用と敬意を集めるようなモデル国になれないでしょうか。お年寄りの持つ知恵によって、メイド・イン・ジャパンよりも、マナー・オブジャパンになるというのが、私の「ライフモデル」です。
これまで憧れの対象だったセレブリティとか、グローバルビジネスマンが、猥雑で節操のない過剰な競争の中、もはや世界の憧れではなくなりはじめているような気がします。いわば、「幸せとは何か」の書き換えです。

このテーマから、「学ぶ」というカテゴリーを考えるならば、海外から日本には、学術ではなくて、中庸や互助、里山における自然との共生など、生活の知恵を習得したい人たちがやってくる。また、生活の知恵を磨いて歳を取れば、こうした人たちの役に立てるというのは、経済の消耗品になるよりも、豊かな老後の過ごし方だと思います。
また、「衣」――化粧も含めた装いの部分で言えば、いまはアンチエイジングが言われていますけれども、高齢者の豊かな経験と知恵が社会の敬意を集めるようになれば、ファッションやヘルスケアも経年変化を隠さないエイジングスタイルになる。穏やかに自然に振る舞うことが人間の魅力であるような日本になればいいなと思います。
「住」で言えば、学校の同窓生や企業のOBというのが、同じ苦労ですとか、価値観を持つ者同士として、コミュニティを作るという方がうまくいくんじゃないか。いわばOB文化住宅です。そこが企業のコンプライアンスや、企業と地域を結ぶような、開発ハブとして機能するような世界になれば、もっと豊かな社会になるだろうと思います。
「ライフモデル」は、自分の体験変化や時代潮流によって、どんどん進化していくものだと思いますが、まず自分が内面にどんな思いを持っているかという根っこを持って働く。直近で抱えている課題が、すぐに「ライフモデル」と直結するとは限りませんが、自分の主体的未来像を、いつか創造的な突破のチャンスにして、課題ではなく自分の思いから逆想して考える。私はこの方が、働き方としてはよっぽど健全ではないかと思います。

創造性を教える側の課題

最後になりますが、こうした時代に、私たち教える側が乗り越えるべき障壁を考えてみたいと思います。

―①適当に褒めると、「粘り」が育たない。

例え話ですが・・・。上司が、若手の部下から企画書受け取る場面です。
『解決策なんて、ネットで検索すればすぐにわかりますよ』――そんな若者を見て、上司は『こいつはちゃんと現場を歩いたのか?』と、本音では思っているかもしれません。
部下から出された企画が2案あったとします。『この2案なら、まあこっちかな?』と、上司は口では言うけれど、内心は『この2案程度なのか?』と思っているかもしれません。
部下は、『2案も出したんだから早く決めてくださいよ』と言う。上司は、『OK、じゃあこれでいこう、よくやった。』と褒めつつも、『もめても面倒だし、適当に流そう。』と思っているかもしれません。
そんな心を知らず、若者は自信を持って、『僕は褒められて伸びるタイプなんです。』と言ったりします。 ぜひ学校の先生たちにもお願いしたいのですが、「適当に褒めないでほしい」――それ、やめませんか。適当に褒めたほうが、もめるよりは、確かに楽ですよね。しかしある種の、私は育成放棄(スポイル)だと思っています。子どもたちは、それほど粘って何かしなくても適当に褒められて、一生懸命恋愛して傷ついたりすることもなく、プライドだけ高くなって社会に出てくる。さらに社会に出ても、ここからは私たちの責任ですが、いまや「質を上げろ」とか、「山ほど考えたのか」とか、誰も言わない時代になってきています。若者たちは、壁にぶち当たっても、自分が壁にぶち当たっていることすら気がつかない。そんな経験したことがないので。そんな若者たちが、何かのキッカケで、うまくいっていないとようやく気がついたとき、大きな音を立ててボキッと折れてしまいます。適当に褒めて育てるっていうのは、心の病を発することの一因ではないかと思います。
どうか、良いところは本当に褒めてあげて欲しいと思いますが、ここまで行けるだろうと頑張れるベンチマークをきちんと掲げて、粘り強く前へ進むガッツを育成してほしいと思います。これでいいのだ、仕事早いぞと、安定や停滞したところに創造性なんて生まれるわけはありませんから。

―②客観と効率だけでいいのか。独創の育成。

ビジネスの世界は、 “失われた20年” という経済低迷期を過ごしながら、極力無駄を減らし、ものすごい経済のスピードから置いてきぼりをくわないように、過去の成功事例とか、効率的な定型、検証済みの方式などに沿うことを重視してきました。また、客観的なデータを重視して合意形成したほうが、仕事のスピードは上がりますし、効率もいい。しかし、達成可能、実現可能なことばかり石橋を叩いて考えていても、イノベーションなんて起きないでしょう。
また、短期的な業績評価とか、PDCA(業務進行管理)が足かせとなってしまって、大きなリスクを取らないような組織体質が育まれてしまった。そこでは、未来のグランドビジョンや、新しい希望や豊かさを想像する力が相当衰退しているのではないかと思います。短期的な成果主義に基づいた育成で、スキルを使って、あらかじめ想像がつく程度の答えをスピーディに量産する慣習が進み過ぎてしまい、オンリーワンの異質な知に、敬意も払われなければ、じっくり育成もされていない面もあると思います。そうすると、チームワークでやろうよ、共に創るのが大事だねと言いながら、実際掛け合わせるべき独創人材が払底しているんです。共創とは、独創×独創のことだと思いますが、ふつうの仮説しか持っていない管理志向の仕切り屋さんばかりがチームにぞろぞろいても、掛け算の共創になりません。
効率のいい形式知というのも確かに場面によって必要ですが、一方では異端を恐れずにじっくり自分の根を作っていく、土壌を耕して熟成をしていくような暗黙知的な創造センスの育成というのも、特に人間が何をディープラーニングしなきゃいけないかと考えた時に、芯の課題になってくると思います。表面的な手段を次々と学ぶフローの知恵だけでは、人間は摩耗します。時間をかけて練り込むストックの知を肥やさなければなりません。

―③教えること、壊すこと。

イノベーション、あるいは創造という言葉の意味も変わりはじめているような気がします。自動車よりも自転車に乗って移動することを選ぶ人が増えていますが、やみくもな機能や利便を盛り込むより、むしろ人間本来の持つ身体や感性の性能をもっと活用しよう、みんなが足し算している時に引き算で考えることも、異質な発想の引き金になります。また、日本は自然災害が頻繁に起きる国です。人間の脆さに視点をおいて、一直線に強くなろうとする成長原理主義から、弱さも寛容する柔軟な成熟主義へ変化することも発想の幅を広げるはずです。
技術と効率成果、ビジネスモデルと成果からだけ考えるのではなくて、先ほど「ライフモデル」という視点をお話ししましたが、学校でも生活起点の希望や幸福、モラルを考える場を形成していくなど、そうした情操的な教育も、これからもっと必要になってくるのではないかと思います。

私はこの2年間、生活者アカデミーのプログラムを作ってきて、教えるとか啓発するというのは、相手に何かを足してあげることじゃなくて、むしろ、既成の先入観や世の中への意味づけを壊してあげることではないかと気がつきました。育てる、後を託すというのは、むしろ生徒さんに上から目線で何かを授けるというよりも、受講生に対して挑んでいくような、こちら側の態度が大切なのではないかと思います。啓発する側にこそ、創造性の練磨が必要です。それは特別なカリキュラムでなくても、いま申し上げてきたように、生活の中でも十分できます。私がおすすめするのは、まず皆さんに一度、ありふれた日常に立ち戻って、そこでどんな感受性が働くか、感じてみていただけたらと思います。
今日は簡単な概説になりましたが、昨年『発想する底力』という本を書きました。日常をクリエイティブマザーに変える、私たちのプログラムのマニフェストです。やっている内容にもっと深く触れていますので、よろしかったらお手に取ってみてください。また、私たちの活動にご興味を感じていただけたら、博報堂生活者アカデミーのホームページを訪問していただけると幸いです。ご清聴いただきましてありがとうございました。

第ニ部

パネルディスカッション

第二部の進行は、日本広告制作協会 教育支援部会 川崎紀弘氏が務めました。

  • 川崎氏
    『小泉先生にお伺いしたいのですが、実際に教育の現場、社会の現場で創造性に対して同じ様な問題が挙がってきています。その点に対しどのようなご意見、ご感想をお持ちでしょうか』
  • 小泉氏
    『私自身、創造性を考えることは直接的な仕事そのものではないものの、研究のために日夜新しいアイデアを考えています。本当に創造性を持っている人はそんなに多くはなく、簡単なことでもないと思います。大切なのは先ほど講演でもお話しさせていただきましたが、「情熱」だと感じています』
  • 川崎氏
    『ありがとうございます。情熱ややる気のような部分は皆さんお話しされてきたと思いますが、中村先生はいかがでしょうか』
  • 中村氏
    『小泉先生のお話で感銘を受けたのは、脳の古い皮質の部分を育むことが、教育の大切な役割だという点です。スキルや技法といった表面的な知恵は、どんどん時代の消耗品になっていくので、それを取りこんでまた新しいことを取り込んで、としていくと、多分人間そのものが摩耗してしまうような感覚があります。ぶれない何かを持つということは、古い皮質を育むということなのかなと考えていました』
  • 川崎氏
    『小泉氏の古い皮質のお話は、研究の中で発見したことなのでしょうか?』
  • 小泉氏
    『私自身、真似をするということが嫌いで、研究の際も自分と同じことを考えている人が本当にいないかどうか、過去の文献や論文を調べるのに多くの時間を割きます。そういうことを知るというのは非常に大切なことだと思っています。検索システムなどで出てこない古い資料などもかなり多いのですが、若い方は既出の研究を新しいものだと思い違いしている人も多いですね。一生懸命クリエイティブなことをなさっている方達とお付き合いさせていただいていると、やっぱり命を削っているなぁ、という感じはします。そのぐらいできるっていうことは、そのぐらい好きだっていうこと。好きでたまんないというか、やりたくてたまらない。それがないと私は新しいものっていうのは出てこないと思っています』
  • 中村氏
    『私は昔、効率信者だったところがありまして、若いころ商品開発のアイデアが簡単に大量に発想できるツールをつくって、得意先に提案したところ、「こういう考え方をしたことはなかったし面白いと思うけど、会社には持って帰れない」と言われました。続けてその方は「仕事がそんなに簡単になったら、社員がバカになってしまう」「クリエイティブの現場は泥沼だが、その泥沼を避けて通っていたら会社はダメになる」と仰っていました。この言葉は、自分が現在仕事をするうえでのエポックとなっている言葉です』
  • 川崎氏
    『先ほどの講演でもあった、粘りという部分に繋がってくるんですね。ありがとうございました。水島先生にもお伺いしたいのですが、中村さんの話のなかで挙がっていた、社会人が学んでいるプログラムと、学校教育の美術や図工、造形遊びは近いものがあるのではないかと感じましたが、いかがでしょうか』
  • 水島氏
    『講演でもお話をしたレッジョ・エミリアに触れさせていただきます。レッジョ・エミリアというものは、子どもたちが独創的であるにはどうすればいいか、そこに集約しています。その結果、造形遊びに至ることも多いです。有名な事例に「小鳥たちの遊園地づくり」というものがありまして、5歳前後の子供達が集まって、鳥さんの中には、歳とった鳥さんもいるよね、じゃあどうしたらその鳥さんたちが喜んでくれるかなって問いかけると、本当に子供達の日常の気づきからどんどんイメージが膨らんでいく。そのあたりが中村先生のお話と重なる部分なのだと思います』
  • 川崎氏
    『講演では皆さんが皆さん身体性であるとか、効率重視より、もうちょっと粘ってみる、そんな話になってきました。例えば小学校時代、中学高校時代の教育が今に引き継がれ、身体性や粘ることが希薄になっているのか?このあたり結構問題なのかとも思いますが、中村さんはどうお考えでしょうか』
  • 中村氏
    『社会に出た時に学校で成績をとるための効率的な知恵だけではどうにもならない世の中になっているということはあるでしょうね。現在の経営のトップの方は大まかに2通りの考えを持っていて、何としても変化についていこう、もうひとつは、こういう時代だからこそブレない根を作ろう、というものです。変化についていくためのテクニカルなフローの知恵も必要ですが、いずれ栄枯盛衰に巻き込まれてしまうものです。逆に、根源的な創造性をじっくり育むストックの熟成が弱いのではないかと感じます。テクノロジーの進化に対して、人間はどういう役割を持つか考えるということも、同様かもしれません』
  • 川崎氏
    『小泉先生の講演でお話があった赤ちゃんの手伸ばし行動について、皆さん共感されていたようなんですが、もう一度詳しくお話いただいてよろしいでしょうか?』
  • 小泉氏
    『赤ちゃんの最初の行動は、おっぱいを吸うなどの行為ですが、これは原始反射と呼ばれる、生きるためにやらなくてはいけない行為なんです。それが起こったあとに本人の意思というものがはじめてあらわれてきます。その一番典型的な例が先ほど話したリーチング(手伸ばし)ですね。最初は手を伸ばせる範囲だけですが、それがもう少し行動範囲が増えてくると、いわゆるハイハイをするようになり、その世界を広げていく。生まれた時は母親と一緒の存在であった赤ちゃんは、お母さんの体内で繋がっていたわけですから自分自身も母親と同じものだと思っているかもしれません。行動範囲が広がることで、母親と自分は違うんだと感じます。それから第三者、お母さん以外の誰かがもう一人加わった段階で、もうそれは社会と同じ概念になります。一人だけでハイハイをするにしろ、それからもうちょっと大きくなって、色々と、自分の意思、興味で行動しだします。そんな冒険が出来るのも、自分のお母さんのところに戻れるんだという、その愛着があるからです。だから愛着がすごく大事です。一番最初に頼れる人、本当に全幅の信頼をおけるそのお母さんの存在というものがなければ、思い切った行動もできなません。他者っていうのは全然別の人で、信頼できないと思ったら、もう他の人には心を開くことができなくなります。だからその意味で、その一番原点であるのは愛着です。ですからイノベーションのためにとんでもないことをやったりするときにも、その生まれた時にお母さんとの間で築かれた愛着があってからこそだと思います』
  • 川崎氏
    『愛着のような根本があるからこそ、革新的な行動や冒険ができるということですね。手伸ばしのような行動は現場にいらっしゃる水島先生は多く目にしていると思いますが、今のお話とリンクする部分はございますか?』
  • 水島氏
    『ハーロウのアカゲザルの実験っていうのがありまして、アイアンマザー、いわゆる鉄で出来たお母さんサルから授乳した赤ちゃんサルと、クロスマザー、布でできたお母さんサルから授乳したサルで実験をしましたところ、鉄のワイヤーでできたお母さんから授乳した方は、アカゲザルとしての健全な養育が全くなされず、その後も回復不能であったと言われています。そのあたりは小泉先生のお話に出てきた臨界期に繋がっていくと思います。 幼児期の体験や愛情形成は大事だと思いますし、先ほどお話したレミダも、素材を目にして、実際に触りながら学習していくというのが原点です。日本の戦後間もなくの造形教育、図工教育というのは、いきなり作り方を説明し、競争的なところの方法論から入っていると思います。造形遊びによってそれが子どもたちの自然な状態へ回帰してはいますが、制度という部分は変え難いところがあります。レミダのように、子どもたちが身体を使って、ものに触って、そこからはじめようというメッセージは伝わりにくいのが現状ですね』
  • 川崎氏
    『パソコンを使わず、手書きで文字を書く、といったところは中村先生もやられていると仰っていましたが、子どもに大切なことを、大人になってももう1回あらためて勉強しているというように感じました』
  • 中村氏
    『私が広告制作をやっていたときの経験です。コピーを書いていて、自分の中で全部出し切って、それでもまだ書かなければいけないときがありました。そんななかで、手が勝手に考え始めるような感覚を持ったことがあります。本を読んでいてページをめくる、手を使う瞬間に、実は我々は何かものを考えているんじゃないかと思ったことがあるんです。
    情報が頭に入ってきて、知恵の袋にたまって何かが出てくるというよりも、手で書いているうちに、身体を動かすから、それが動力でなにか出てくるという感じです』
  • 川崎氏
    『それも身体性に関わる事ですね』
  • 中村氏
    『そうですね。体を使わないと出てきてくれない、入ってもきてくれないという気がします。これは、パソコン上で情報処理できるオペレーションとは、全く別物だと思います』
  • 川崎氏
    『先ほど小泉先生から、大変な労力をかけてイノベーションするときにも、愛着があったから出来るのでは、というお話がありましたが、実際に社会や受講生の皆さんに接していかがでしょう』
  • 中村氏
    『先ほどの「全人格で考える」という話で、ポケモンGO!のジョン・ハンケさん、いすみ鉄道の鳥塚さんの例をお出ししましたが、思いですよね。これが本当に好きだとか、こうなったら良いという思いがあるから、あそこまで大胆に出来るんだと思います。業務上の事情や都合にあわせて、そとの状況のレポーターみたいにならないで、自分の中から出していく、そんなことが創造性じゃないかと思っております』
  • 川崎氏
    『ありがとうございます。最後に皆さまから一言ずついただければと思います。中村先生からお願いします』
  • 中村氏
    『今日、私は講演するほうの立場ではありますが、小泉先生や水島先生のお話がとても勉強になり、呼んでいただいた事を改めて感謝します。話の中で、子どもたちを適当に褒めないでほしいといいましたが、もう一点だけお伝えしたいことがあります。
    クリエイティビティの大切な初動というのは何かに気がつくこと、当たり前だと思っていることにも違った見方があるのではないか、という違和感を発見することです。それを若い人たちに話すのですが、なんだかいまいち伝わらないんです。最近わかったのですが、いまの子供たちにとっての発見とは、ネットで検索して必要な情報を見つけること、これを発見だと思いこんでいる。そこから社会人教育をはじめるのは、けっこうしんどいです。学校教育の時代に、コピペや文献の引用ばっかりしているなと、ぜひご協力お願いします』
  • 川崎氏
    『ありがとうございます。続いて水島先生お願いします』
  • 水島氏
    『私は今年、1年間の海外研修から戻ってきたのですが、研修中に感じたのは「場」というものがとても大事だという事です。ボローニャ大学の一例ですが、12世紀のフレスコ画が飾られている空間で、学生たちは自由に勉強しています。留年して長期にわたり在籍していたり、はたまた先生が来なかったりすることもあったりと、ものすごい状況なんです。でも、自由に考える、発想する、そしてそれを支える環境や風土があります。かたや日本は成果主義的なものが蔓延している状態にあります。自由に考えることのできる環境を考えていかなければいけない時期なのではないかという感じがしますね。もうひとつはユーモアでしょうか。イタリアの方とお話をすると、最後に何かオチのようなものをつけたがる。いつも、にっこりするような表現がありました。日本人もユーモア、人間味のようなものがある程度必要なのではないかなという気がします』
  • 川崎氏
    『ありがとうございます。最後に小泉先生、お願いします』
  • 小泉氏
    『先ほどから挙げられているように、頭だけで考えるということには限界があると思います。これまでとても長い間、地球上の多くの人たちが頭をフルに使って思考をしてきている。ほとんどのことは既に考えられている。そのうえでさらに新しいことを思いつこうとすると、頭だけでは出てこないと思います。ここで感性的、または身体性という話になってくるんです。加えて、環境や現場というものの実態を見ていないといけないということですね。講演の際に使用した化石の写真ですが、誰かの写真をお借りしたということは一切ございません。全部自分で手に入れて撮影しました。なぜかというと、私はいま、自分の専門外の進化で新しい理論を作ろうと思っています。そう思い立った時にですね、文献を漁っても何も新しいことはないじゃないですか。だから非常に手に入りにくい化石をなんとか手に入れる、そういうネットワークを作るまでに1年ちょっとかかりました。それで手に入れて触る。実際に触ることがとても大事だと考えているからです。一番古い化石で35億年前、それから15、6、5、4億年前のものとありますが、地層などの相違もあり、触ると感触は全然違います。そこから時代っていうのを感じる。ではその頃の生物はどういう方向へ大きな時間の中では動いていたのか。その一番基本的な原理のところをきちんと説明したい。そんなふうに考えています。やっぱりさっきからお話があるように、頭で考えることはすごく限界がります。身体を使わないといけないと思います』
  • 川崎氏
    『ありがとうございました。ここからは3人の先生と参加者様との質疑応答です』
  • 質問者1
    『小泉先生に質問です。私は幼稚園・保育園のコンサルをやっていまして、約700人の子供たちに、自分なりの方法で毎日絵を描かせています。お話しにあった臨界期はどんどん前倒しされてきていないか、と思っています。調べてみたのですが、1年から2年、早くなってきている気がします。そういう時期に絵や音楽、読書に関心を持つか否かで、人生が大きく変わってくるのではないかというのが私の持論なのですが、いかがでしょうか。
  • 小泉氏
    『視覚のような、単純な感覚の場合の臨界期は非常に明瞭です。しかし、感覚と別の要素が複合した場合、それが高度なものになるにつれて、臨界期についても複雑になってきて、臨界期が間延びする場合もあるんです。あとからでも意欲があり、努力さえすれば取り返せるとは思います。しかし、社会の変化によって臨界期が変わってくるというのは気になっている部分もあります。何かをしようとする働きと、するのをやめようとする働き、「GoとNo Go」といいますが、これは前頭葉の回路による働きです。そのうちNo Goの神経回路が出来上がるのは、Goのあととなり、年齢も高くなってからになります。例えば、子どもが道路の向こうに立っている親の元へ飛び出してしまうことがありますが、これは抑制系の神経回路がまだ発達していないからということになります。それらを詳しく調べているグループがあり、完璧な形での最終報告ではありませんが、今と昔では抑制系の発達が1年から2年ほど遅れているとの報告があります。ですので、先生がご指摘されたことは非常に重要なことだと感じています』
  • 質問者1
    『もうひとつ、水島先生に質問です。日本の小学校、中学校、高校における美術工芸教育の時間的な配分が、全滅状態にあるのではないかと感じています。また、幼稚園の時代から、絵が描ける子と描けない子で違いがあるなどして、絵が嫌いになってしまう子どももいるのではないでしょうか。先ほど先生が講演中に紹介した映画でも、子どもが画用紙の下3センチほどの地面を塗っていましたが、あの時点で子どもたちは忍耐や集中力が切れてしまいます。全面を塗ろうとすると一時間はかかってしまうのではないでしょうか。今の幼稚園では時間が足りないという問題も出てきます。また、私の研究で小学校1年、3年、6年生の全児童に、アンケートを取ったことがあります。美術が好きか、自分で絵を描いたことがあるか、自分がうまいと思うかの3点です。その結果を見てみると、1年生から6年生になるまでのあいだに、美術が好きな人は3分の1になっていました。どうやら3年生のときに折れてしまう子が多いようです。社会に出ると創造性の核心となるデザインやイラスト、そういった感覚が必要になるのに、現在の政府教育方針はだいぶ違うのではないかと思っています。いかがでしょうか』
  • 水島氏
    『自分自身はオブザーバーみたいなところがありましたので、今回の学習指導要領の改定には関わっておりません。しかし、教育者の先生方が鋭意進めていただいたということは伺っております。時間数に関しては、教科の問題というよりも、教育全体の問題ではないかと思っています。つまり国民の意志というところです。それにより直接的に授業時間を減らせという声がありましたが、有効ではなく、どんなプログラムを組むかの試行錯誤は各国 が取り組んできました。他国に比べると授業の時間数はまだ多いようで、創造性を育む教育というのは、増えてきているのではないかと感じています。ただし、いわゆるお絵かきや工作の時間というのは世界的に見て減ってきていると思います。なんらかの形で造形教育をやりたいと、私自身常々思っております』
  • 川崎氏
    『質問者様のお話にもありましたが、社会では創造性が必要とされていながらも、小学校で絵が嫌いになってしまう。このあたりはいかがでしょう』
  • 水島氏
    『昔から年代ごとに意識調査はしています。ベネッセの調査で、昭和53年、平成元年、平成10年と、約10年単位で小学校低学年から高学年まで調べています。それによると図工は子どもたちの最も好きな教科としてあらわれてきています。ただし以前は彫刻や絵画、つまり大人と同じ文化領域を簡略化したものを子どもに学ばせていた時代もあって、そのころは子どもたちもそれほど好きではなかったという話も聞いております』
  • 川崎氏
    『それでは、図画工作が好きで、能動的な子どもは増えてきているという事でしょうか』
  • 水島氏
    『はい、小学校の段階では増えています。しかし中学校にあがり、中学生の保護者に一番いらない教科はなにかと聞くと、圧倒的に美術です。音楽よりも美術です。という答えが返ってきます』
  • 川崎氏
    『つまり親御さんの理解という側面が強く出ているということになるんですかね』
  • 水島氏
    『保護者の要望を再生産的に受け止めている子どもたちがある程度いる、もしくは受験に役立たない教科は…という発想が色濃くなってきているとは思います』
  • 川崎氏
    『親御さんの、というお話が出てきましたが、中村先生はいかがでしょうか』
  • 中村氏
    『講演で小泉先生が「報酬系」のお話をされていましたが、現代社会において図工をやっても報酬にならないというふうに世論や親が信じさせてしまい、子どもが喜ばないということに繋がっていっているのではないでしょうか』
  • 川崎氏
    『芸術教育に関する前向きな考え方は、ようやく出てきた、といいますか、おそらく先端的な取り組みだと認識されているようで、まだ全体的に行われはいませんね』
  • 中村氏
    『テクノロジーが進化することによって、人間がやるべきことを改めて考える時代になってきていますよね。人間にしかできない事は3つあると言われています。
    ひとつ目は、目的が創造できるのは人間だけ。例えば将棋をやって勝って、じゃあ次は囲碁に挑戦してみようと目的をつくるのは人間にしかできない。AIは勝つための手段の部分です。また、情熱という話がありましたが、情熱を持って、コミュニケーションの力で人間同士が組んで、野越え山越えプロジェクトを前進させていく。そういう能力はたぶん、AIじゃないでしょう。3つ目は、機械に対するモラルです。人間なんてどうしようもないから、もう殺しちゃえ!と、テクノロジーが思わないような、モラルマネジメントです。これらはすべて教育が人間に対して育まなくてはいけないことだと思います。 近い将来「マークシートや偏差値では評価できないことをやるのが人間の価値だ」と言われる時代がくるかもしれません。いまの学習指導要領からはみだした教育にトライしている方、教室から飛び出した教育をトライしている方がたくさんいらっしゃいますし、それがいつの日か、学習指導要領に入ってくる時が来るかもしれません。そのためのチャレンジをどれだけやっていけるか、それが私たち教える側の創造性だと思います』
  • 川崎氏
    『ありがとうございます。では次の方、ご質問をどうぞ』
  • 質問者2
    『小泉先生に質問をさせてください。チンパンジーと比べて人間は階層的な言語能力がある。創造性がわくのは人間だけだ、というような話がありましたが、我々がブレインストーミングでアイデアを出す場合、この言語はブレインストーミングに向いている、だけどこの言語だとブレインストーミングに向いてない、といったように、特定の言語で思考すると創造性が発揮しやすいという可能性はありえるのでしょうか』
  • 小泉氏
    『自分の経験談になりますが、英語の方がロジックという点では日本語よりもかなり明瞭な部分があるので、議論をするときにはロジックのおかしいところは表現に出やすい、という感じはします。ただそれとクリエイティビティはまた別の話ですね。言語を使った論理というのは意識上で行われますが、創造性に強く影響を及ぼすのは意識下の部分です。言語で緻密なことができれば最終的な回答に一番正しく到達できるかというと必ずしもそうではありません。意識下で物事を判断した場合、明確な形ではあらわれなくても、最終的に正しい結果を導くこともある、という実験結果もあります』
  • 質問者2
    『意識下で考えるからこそ、特定の言語に左右されないということですね。ありがとうございました。もう1点、我々の脳を小脳・中脳・大脳とした場合、これからAI、人工知能がどこまで発達するかわかりませんが、AIが外部脳として、たくさんのことを覚え、我々はたくさんのことを覚えなくてもよいとなると、このでっかい頭の大部分が、がそれほど必要なくなってくる。第4層目の脳があるとしたらそれはどんな方向がありえるんでしょうか。人工知能の先に行った人類というのはどうなるとお考えですか?』
  • 小泉氏
    『そうですね、すごく難しいお話です。いろいろ便利なものができてきて、今まではその利便性の追求のようなものが社会の目標になってきたと思います。けれども、それは脳にとってみれば、脳をサボらすことなんです。だから卑近な例だと、もうワープロをしょっちゅう使うようになったら漢字が書けなくなる。これも一つの例ですよね。ただ、脳はできるだけ、必要なものにだけ回路を再生させていく。そして不要だと思ったらすぐにどかしていく。 そういう性質があります。ですから、便利になって、その、一見自分たちは高度な生活をしているような錯覚に陥りやすい。例えば車に乗りすぎると足が萎えて運動ができなくなりますよね。それと同じことが脳にはすごくたくさん、最近は起こり始めていると思います。そういう意味でも本当に人間にとって何が大切か、本質を考えないといけない時代がきていると思うんです。ところがその、よく手段と目的が混同されるケースがすごくあって、 たとえばですが、親御さんや受験生自体から芸術科目なんかいらないよっていう声がある、それは手段としていえば、いいところに進学し、いいところに就職をしたい。そしてお金が得られれば生活は幸福であろう。そんな考えですね。 でも、そのお金っていうのはあくまでも手段ですよね。目的ではない。問題は、本当の人間として何が目的か。そうすると、先ほどのように、どうやって充実した日々を送れるかっていう、そういうところがこれから重要になってきますよね。ですから、先ほどからのご意見がいろいろありましたけれど、これから追及されるのは、そういうような、手段を間違えない、手段と目的を間違えない、それから本当に目標とするのは何かという、そちらの方に社会のほうも大きく変わっていくのではないかなと感じています』
  • 川崎氏
    『では先ほど手をあげられた方、お願いします』
  • 質問者3
    『私はおもちゃの企画やデザインをするものづくりの会社の採用担当者です。ものづくりは、どうしてもこれがやりたい、という情熱が根本にないといいものはできないと思っています。強い情熱、こだわり、執着心みたいなものを持っている人はすごく減っているように感じ、理由を考えてみたのですが、小さいころ、どこかのタイミングで、夢中になることがダサい、かっこ悪いという考えが根底にあるのではないかと思うようになりました。お三方のそれぞれの分野の視点から、お考えをお伺いしたいと思います』
  • 水島氏
    『実は今月、養老先生と虫取りに行きませんかみたいな話をしていました。養老先生はゾウムシの第一人者でありますので、もう本当に暇があるとぱっぱっと出かけちゃう。これって、小さいころの過ごし方、センス・オブ・ワンダーが影響しているのかなと、思ったりします。そしてセンス・オブ・ワンダーの裏側には臨界期の要素も含まれてくると思います。幼少期、無垢な感性を持った子供たちが、実際に様々なものに触れて、生きていく中での情報を確保する。そういうことが大切だと思います。そういったことが小さい時に確保してあると、その子は必ずちゃんと生きていけますよね。そういった、ちゃんと生きていく部分が本当に今の世の中みんなこう複雑にされてしまって、刈り込まれてしまっている。そういったものをいいね、って認められるようなコンセンサスみたいなものを教育、そして社会全体でつくっていくのが必要だと感じます』
  • 川崎氏
    『小泉先生、お願いします』
  • 小泉氏
    『いまの水島先生のご指摘というのは本当に重要なご指摘だというふうに感じていまして、その根になるところはやはり、もう幼児期にあるのではないかと、非常に強く感じています。幼児教育支援プログラムの審査委員長をやっており、その関係で現場にしょっちゅうお邪魔してきました。そうすると、乳幼児、場合によっては0歳児から、創造的なことに興味を持って、行動することがあります。そういう実情を把握して、周りが手伝いながら育んでいくべきだと思います。大人になってからではそう簡単にいかない、というのが私の感想ですね』
  • 川崎氏
    『最後に中村先生、よろしくお願いします』
  • 中村氏
    『ものづくりへの情熱がいつなくなったか、ハッキリとはわかりませんが、社会環境自体がものづくりに情熱を持つことを後押ししていないのかもしれません。
    例えば子どもが作った粘土細工に対して、一番言ってはいけない言葉が「これは何?」だと思います。女なの?男なの?動物なの?と。型にはめていくことになりますから。それよりも、「私はこれ大好きだよ」と言ってあげるのが一番、つくる情熱を持たせるには、いいんじゃないか、とか。そんな風に、これは社会やシステムにゆだねるというより、私たちひとりひとりが子どもたちの情熱に火がつくように、毎日の小さな場面で悩むしかないと思うんです。制度というよりも、子どもたちの親、先生、先輩など、ひとりひとりが衣食住と同じような生活課題にするべきですよね』
  • 川崎氏
    『ありがとうございます。では次の質問者の方、お願いします』
  • 質問者4
    『私は幼稚園をやっております。先ほど質問されていた幼稚園の先生が仰っていた、絵が描けない子どもがいる、ということについて、指導法の問題なのではないかと考えていました。世の中はどんどん便利になり、IT化などもすすんでいますが、便利になればなるほど、子どもたちの能力は落ちていくのではないでしょうか。水道の蛇口を自分で回したり、靴の紐を結んだり、ボタンをかけたりといった、アナログな経験がもっと必要だと思っています。チャップリンの映画を見せて、子どもたちが大笑いしているのを見ると、大人や社会が、子どもの成長を阻害しているように感じることもあります。普段はパソコンで映画を見せているのですが、16ミリフィルムで鉄道の映像を見せた時がありまして、その時は子どもたちの目つきが全然違っているのに驚きました。普段は映し出された画面を見ている子どもたちが、映写機を食い入るように見ていたんです。先生方が先ほど仰っていたような、文字を手書きするような、アナログの世界が、幼児教育の問題点を解決してくれると信じているんですが、少数では世の中の波に勝てません。ぜひ先生方から、このようなことを発信していただければと思っています。よろしくお願いいたします』
  • 中村氏
    『今の幼稚園、現場の教育に直面していらっしゃる方のご苦労というものは計り知れないと思って、頭が下がる思いです。いまお話聞いていて思い出したのが、ハイエクの「自生的秩序」という概念です。それについて、レム・コールハースという建築家が言っているんですが、ニューヨークのマンハッタン島、あそこは最初から碁盤目に区切られた規格で売り出された土地です。だから、その規格以上に広がるには、上に伸びるしかなかった。それで、摩天楼ができたと。
    僕も会社員、サラリーマンという規格の中で仕事をしていますが、仕事の枠や時代の流れがあるからこそ、逆にどこかにはみ出す伸び先とか、時代の流れに対するカウンターを思いつくというのが、それが次の時代の新しい兆しになることがあるはずだと思っています』

またこの後、水島先生より、最後にご意見を言われた方の幼稚園経営の方の紹介があり、
ぜひ先生自らも、更にご活躍くださいと激励されていました。

川崎氏より、講演いただいた講師の皆さんと、本日参加された皆さんへ感謝の言葉があり、パネルディスカッションは終了いたしました。
当日ご参加された皆さん、長時間ありがとうございました。改めまして御礼申し上げます。

なお、下記に日本広告制作協会主催、教育シンポジウムの第1回目と2回目の報告をまとめたアドレスを記しております。
ご参考まで。

また、今回のアンケート結果もご覧ください。

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