EDUCATION SYMPOSIUM

AI時代の「ひとの学び」を考える教育シンポジウム

『ひと と AI -AIは好奇心を持てるのか-』

  • ◎ 開催日:2018年2月24日(土)
  • ◎ 会 場:女子美術大学 7号館7201教室
  • ◎ 参加者:76名

4回目となる教育シンポジウムは、子ども時代の学びもさることながら、「大人の学び」にも気にかけていきたいと、子どもたちから大人まで、幅広く「学び」に関わる市川力さんと、今後の生活にどうやっても切り離すことが出来ないAIを研究している山川宏さんをお迎えしてのシンポジウムとしました。

おっちゃんと子どもが共に探究する学び
~大⼈も子どもも面白がり屋になるために~
探研移動小学校主宰
 市川 力 氏

市川 力
1963年東京生まれ。1990年渡⽶後13年間にわたり、日本人駐在員向けの学習塾を運営。
英語環境下での日本語学習指導に携わった経験からグローバル時代を生きる子どもたちに必要な、真のコミュニケーション能⼒を育てることを目指す教育研究・実践を⾏う。2003年帰国後、東京コミュニティスクール初代校⻑として2017年に退任するまで子どもの探究心に火をつける教育実践を行ってきた。現在は、探研移動小学校を主宰し、大⼈も子どもも共に学びながら探究マインドを育む学び場づくりを続けている。著書に『英語を子どもに教えるな(中公新書ラクレ)』、『探究する⼒(知の探究社)』、『科学が教える、子育て成功への道(今井むつみ氏と共同翻訳:扶桑社)』。また、NHK Eテレ高校講座「総合的な探究の時間」、NHK for school「すくどう小学校放課後クラブメタモル探偵団」の監修・出演など幅広く活躍中。
  • 市川さんは、大人と子どもがともに何かを探究し学ぶ場としてのオルタナティブ(代替えの、既存のものに取って代る新しいもの)教育の活動を中心に、現在は大人が学ぶ活動にも積極的に関わっています。今回の講演では、その経験から考える「好奇心主導の学び」についてお話しくださいました。

  • 小学生が小学生時代を小学生らしく過ごす学びの場

    「先ほど市川先生というふうにご紹介いただきましたが、実は現場で先生って呼ばれたことがなくて、私は “おっちゃん″ いうふうに呼ばれているんです。その呼ばれ方が生まれたこと自体が私にとってのオルタナティブな学びの誕生で、要は僕が “おっちゃん″ と呼ばせたわけではなく、子どもたちと一緒に学んでいたら、むこうがいきなり “おっちゃん″ と僕のことを呼んだと。じゃあそれはどういうことなのかっていうことを考えつつ、十何年間歩んできました」

    「人の学び、そしてAIとのつながりってことについて、このあと山川先生から面白い話が聞けると思うんですが、私は「十何年間のおっちゃんと子どもの探究物語」っていうのを話させていただきたいと思います」

    2004年、高円寺に市川氏が初代校長をつとめた東京コミュニティスクール(TCS)が設立されました。市川氏ではなく保護者自身がつくりだした学校に巻き込まれていったというのが最初のきっかけ。その時の保護者たちの願いはこうでした。

    「小学生が小学生時代を小学生らしく過ごす学びの場が欲しい」

    「2004年ってどういう時代だったかというと、今はアクティブラーニングだのなんだの言ってますが、このときって学力低下がさかんに言われて、分数ができない大学生が問題である、教科書の内容を減らしちゃいかん、円周率を3と教えるなんてどういうことだ、そういう議論がされていた時代です。そのときに、小学生らしさというものをもう一回考えてみようよっていう人たちがいたということです」

  • 「遅く・緩く・少し」=余遊へ

    市川さんは、今の小学生から小学生らしさを奪っているのは「忙しさ」であると語ります。

    「いまの小学生は忙しいですよ。学校が終われば習い事があって、一週間のスケジュールを書かせたらとんでもなく小刻み。確かに、出来るようにするのが教育だ!とか、知識を身に付けさせて中学・高校に送り出すべきだ!という側面はあるでしょう。でも、小学生にこれを求めたら忙しくなるのは当たり前。英語は何歳から始めればいいですか、藤井聡太くんみたいになるために将棋はやるべきですよね・・・またまたいろんなやらせたいことが出てきます。早くそして速く、そして多くやった者が勝ちっていうけど果たして教育ってこれだけなんでしょうか。教科書全部を教えないと駄目、国算理社全て教えないと駄目、そして、もっと効率的に・・・。こういう基準に対して小学生らしくっていうことだったら、逆でいこう!と考えました」

    「遅くていい、緩くていい、少しでいい。それはどういうことかっていうと、思いついたら飛び石でピョンピョン飛ぶ、網羅しない。こっちが面白いと思ったら、そっちへ飛んじゃう、節操なく。そしていろいろ漂いながらあっちこっちいったりする。さらに無駄だと思われることを積極的にする。
    すると見事にわれわれのやってることって現状の教育の裏返しだった。できないこと、分からないこと、終わらないことをやろうというんですからね。」

    「実はこれって、新入社員や大学生に必要だっていわれています。今の若い奴は「できないとすぐあきらめる!」とか言うけど、今まで述べてきたような教育をしてたんだから、できないっていうことをネガティブに捉えるのは当たり前でしょう。
    そもそも、できないっていうことがあるから、それが学びの種になって、できるようになろうと思うわけだし、人生において「わかる」ことって、実はたいしたことではないことが多い。むしろ、わからないことをゆっくりゆっくり追い続けて、終わらないことに対してずっと食いついていくほうが、よっぽどすごいんじゃないか。そう思うわけです。こういうことを素直に発揮できるのが小学生時代、あるいは子ども時代。われわれが本来持っていて、自然に発揮できる能力だったはずです。
    なるべく早い時期に、なるべく速く、多くやらせるっていうような風潮から小学生を守ることはどういうことなのか、それをわれわれは追い求めてきました。結果、それは「余遊」。簡単に言えば遊べってことです。つまり社会に余裕がないんだから学校の中で思いっきり「余遊」を作ってやろう、ということを目指しました。」

  • 「原体験=好奇心に駆られた
    偶然の出会い」を確保する

    市川さんは実際の写真を交えながら、子どもたちと小さな山のある公園へ行った際の様子を話します。

    「忙しい小学生が身に付けることができない基礎・基本って何かっていえば、明らかです」

    「原体験とは何かについてお話します。
    都内の公園に丘というか山があって、そこに遊びにいきました。
    行くと子どもたちは転がりたくなります。やがて、転がるだけじゃなくて、ゴミ袋に入って滑るやつが出てくる。ごみを入れて帰るために持ってきた袋なんだけど、なぜかこの袋に入って滑りたくなる。こういう原体験が、今、できない状態にあるんです」

    「また、われわれ年に一回野宿します。テントではなく、寝袋一つで寝ます。
    この子がなんで傘をさしてるかといったら、寝袋から顔だけ出して寝ると、晴れていても 夜露で顔がびっしょりになるんです。そして朝、大切にとっておいた魚肉ソーセージを、傘に隠れて食べている。このひそやかな喜び。
    これが原体験。」

    「原体験というのは、好奇心に駆られた偶然の出会い。大人が「じゃあ自然体験をします。森の中でテントたてます。火をつけます。火はどうやったらつくかな」といってやるのもいいんですよ。だけど、なんか自分でやってみたくなる、そこに袋があったら入りたくなった、あるいは、滑りたくなったから転がってみた。起きたらびしょびしょになってた。なんでびしょびしょになったんだろう。いつもは別に美味しいと思わなかった魚肉ソーセージを食べてみたら美味しかった。そういう好奇心に駆られた偶然の出会いっていうものが、実は子ども時代の特権ですよね。だけど、こういうものっていうのをどこで確保するのかっていうのが、たぶん現代社会において問題になっていて、それこそ学校でやるのがいいんじゃないのっていうのがわれわれの考えだったわけです」

  • 「原体験=冒険的行為」を
    見守ってあげる

    「東高円寺の蚕糸(さんし)の森(もり)公園に池がありまして、なんとも微妙な氷の張り方をしたわけです。この子は、カーリングのように氷を割らないように石を投げて滑らせるっていうことを考えました。

    石が大きすぎるとバーンと割れちゃうわけです。どれぐらいの大きさの石だったら割れないかとか、どうしたら投げた石がいい感じですーっと滑っていくかとかを試してみる。ちなみにこの写真を見ると「立ち入り禁止 入らないでください」という表示がされているのがおわかりいただけると思います。わたしが公立小学校の校長先生だとして、「そんなの構わず入りなさい!」って言った瞬間、たぶんもう大炎上です。でも、黙って見ていてあげるっていう大人がいていいはずです。ここで溺れることも、危険なことも考えにくいでしょう。むしろ面白いからこそ、入れないぞと言ってるようなものです。おそらくここにいらっしゃる方のなかで私ぐらい、あるいは私以上の年配の方はこういうところに入っていたはずですよね、絶対。で、やらかしているんですよ、たいてい。その経験がないってことと、あるってことの差を結構感じていたりしませんでしょうか。原体験というときの、ひとつは偶然の出会い。もう一つは、危険な行為ってホントは言いたかったんですけど、冒険的行為っていうふうにちょっと格好つけました。好奇心に駆られた冒険的行為っていうことも安全な範囲内でやらせて見守ることが求められる時代になっていると思います。」

  • 原体験と学びのつながり

    「じゃあ原体験がなんで学びにつながるのかというと、こういう経験って子どもは熱く語りたくなるし、書きたくなります。そりゃそうですよね、一期一会の体験だから。この写真も同じ蚕糸(さんし)の森(もり)ですけど、5年前に雪がすごく積もったときのものです。こうなると子どもたちは、一日中外にいてもへっちゃらです。

    子供の狐は遊びに行きました。真綿のように柔かい雪の上を駈け廻ると、 雪の粉が、しぶきのように飛び散って小さい虹がすっと映るのでした。
    すると突然、うしろで、「どたどた、ざーっ」と物凄い音がして、パン粉のような粉雪が、ふわーっと子狐におっかぶさって来ました。
    子狐はびっくりして、雪の中にころがるようにして十メートルも向こうへ逃げました。なんだろうと思ってふり返って見ましたが何もいませんでした。
    それは樅(もみ)の枝から雪がなだれ落ちたのでした。まだ枝と枝の間から白い絹糸のように雪がこぼれていました。
    間もなく洞穴へ帰って来た子狐は、
    「お母ちゃん、お手々が冷たい、お手々がちんちんする」
    と言って、濡れて牡丹色になった両手を母さん狐の前にさしだしました。
    母さん狐は、その手に、はーっと息をふっかけて、ぬくとい母さんの手でやんわり包んでやりながら、 「もうすぐ暖くなるよ、雪をさわると、すぐ暖くなるもんだよ」といいましたが、かあいい坊やの手に霜焼ができてはかわいそうだから、夜になったら、 町まで行って、坊やのお手々にあうような毛糸の手袋を買ってやろうと思いました。

    新美南吉『手袋を買いに』

    「この文章と雪遊びでの子どもたちの原体験は見事につながります。初めての雪の中で遊んだ子狐が、帰ってお母さんに“お手々がちんちんする”と伝えた気持ちを、雪の中で遊んだ子どもたちは実感します。すると、ただ文章の表面を読むだけでなく、物語で描かれている世界をより深く読み解くのが面白くなるのです。これは速く正確に読む力が求められる中学入試の国語ではあまり活きませんが、高校生、大学生になって本に粘り強く立ちむかい、どんな厚い本でも、難解な本でも、読書しようという気持ちにつながります。だからテキストと原体験を結びつけることはとても大事だなと思います。」

  • 好奇心=なんでも面白がる心

    「好奇心を育てる学びってなんだろうということを常に考えながら実践を続けてきました。その源はやはり「好きだという気持ち」でしょう。でも、“好きなこと”っていうのをこう勘違いする人がいる。
    「自分が楽しく取り組めることが好きなこと」。そうすると、こういうことが起こるわけです。
    公園で、ずっとゲームしています。

    「俺好きなことやってるよ!」。
    好きなことに没入しているから、これはこれでいいだろうと思う方もいるかもしれません。でも、これがほんとに好きなことっていえるのかというと、私はそうは思いません。好きなことっていうのは自分がのめりこんで追究して、広がり、深まっていくことだと思うんです。でも、多くの人は好きなことが見つからない。高校生も、大学生に聞いてもそうです。やる気が起こりません、好きなことないです、と。原体験は、野宿でびしょびしょに濡れてしまうという例からわかるように、心地いいことばかりではありません。だけど、好奇心っていうのはそんな状況でも面白くしてしまうことかもしれません。例えば、さきほどの公園も連れていく全ての子どもが喜ぶわけじゃありません。「なんにもないじゃん!つまんない!」だからゲームやる子たちだったら公園でもゲームやるわけです。だけどゴミ袋に入って滑ってみようと思うのは、この状況なんか面白くやれるんじゃないかっていうふうに思えたから。この状況を面白くできると思えたからです。こういう経験をした子は、目の前にあるつまらなそうなものでも、あるいは身の周りにあるちょっとしたものでも面白く変えられるんじゃないかと思えてくるんです。それが好奇心ってものなんじゃないかと。そこで、なんでも面白がる好奇心を育てる場をどうやって作ればいいのかってことを考えていくことになりました。」

  • 「みんなで とりあえず たくらむ」、
    そして
    「原理と現実とのギャップに気づく」

    「そのためには、みんなでたくらむ。見てくださいこの男子の顔。たくらみ顔です。先ほども言ったように冒険的行為を考えている感じです。私だけが結構真剣に語っていて、子どもたちは、
    「いやいやおっちゃん、そんなかたいこと言わなくてもいいからさ、ちょっと面白そうだからやってみようぜ」というようにむしろ子どもたちに遊ばれている感じ。そんな学びがいいんです。」

    余談ですが、こういうフリースクールって男子が入ってくるケースが多いんです。男の子のほうが、子ども時代は結構繊細だったりします。こう言うと女子に怒られますが、結構弱いんです、男子って。だけど、“こんなことやっていいかな”・“やりたいけど怒られるかも”と考えているときに、大人が「やっていいんだぜ!」と、後押しするかどうかで違ってきます。

    「こうやって、みんなでとりあえず“たくらむ”。さっきも言ったようにおっちゃんと子ども、大人も子どもも一緒に、まず“たくらむ”。私も答えを持っていなくて、一緒になってああでもないこうでもないと考えるのです。さて、“たくらむ”ってどういうこと?となりますが、それは試行錯誤を楽しみながら工夫することではないかというふうに考えています。子どもって、「これ好きなんだよね」と言っていたものも少しすると、「もう好きじゃなくなっちゃった」とかあっけなく言うものです。なんでそうなるかというと、一回つまづいてうまくいかなかったら、もういいこれ面白くない、となってしまうからです。だけど、試行錯誤するってことは、うまくいかないとか、ダメだ!というときに工夫するということなんです」

    「じゃあ例えばどういうことしたかっていうと、車を一人の力で動かしてみようっていうことをやってみました。そのためにはどうも滑車があったほうがいいぞ、いや滑車なんかなくても牽引に使うフックの丸い部分にロープをひっかけるだけで動くんじゃないの?というような感じで、とりあえずなんか役に立ちそうなものを探してみたり、科学博物館に行ってみたりしました。理科の学びとしてとらえることも可能ですが、そういうキチンとした学びよりも、一人の力で車を動かしてみたい!という子どもの強い好奇心からスタートしたにすぎません。さて、子どもがデザインしはじめます。
    「動滑車の数を増やせば増やすほど力が弱くて済むんだよ。俺はこの装置でやる。だからおっちゃん、たくさん滑車買ってきて」
    自慢げに自分の設計図を見せて語るんですね。ところが、実際にやってみると滑車を並べて数を増やせば増やすほど摩擦が増えて動かないんです。これがいいんです。
    「おっちゃんおかしいよ、滑車の数が増えるほど重くなってるんだけど」
    「一個とか二個のときのほうが軽かったんだけど。なんで?」と聞いてきます。
    そこで原理と現実とのギャップに気づく。昔、みなさんも理科で教わったと思いますが、滑車を利用すれば力は二分の一になるのですがロープを引っ張る長さは二倍長くなる。すると、ロープがたるんでしまってうまく引っぱれなくなるんです。
    「あれ、こんなに引っぱったのに動いたのこれだけの距離!」
    むなしさが残るわけです。

    そうすると、「おっちゃん、クレーンってすごいね」みたいなことを子どもが言いはじめるわけですよ。なんでそう思ったのかって聞くと、
    「だってさ、俺たちあんなに摩擦で苦労したのに、たくさん滑車使ってもスムーズに動くし、引っぱってもたるまないようにうまくロープ巻きつけてるし、いったいどうなってるんだろう?」とか言い出すんです。身の周りにある、原理を活用した装置の構造が気になってきて、世の中にある装置ってすごいよねということに気づくわけです。ちなみに子どもたちが一番感動したのはタイヤ。滑車も円だったから良かったんだ。どこにでもある円というプリミティブなものに対してすごいという感動を新たにするなんて最高ですよね」

  • 「30年後の“おっちゃん”の葬式劇」と
    「人生楽ありゃ苦もあるさ年表(更新可能な人生)」

    さらに市川氏さんは好奇心主導の学びの一環として、子どもたちとともにファンタジーをリアルに感じるということを試みました。そのための仕掛けが「30年後 おっちゃんの葬式劇」と「人生楽ありゃ苦もあるさ年表」です。

    「もう一つ取り組んだ好奇心主導の学びは、ファンタジーをリアルに感じること。つまり、そんなのあるわけないよね、嘘だよねっていうことをどうリアルに感じるか。どうしたかっていうと、あるわけないじゃんみたいな突飛なことにのめりこむ。車を引っ張ることは、目の前にあるものと向き合って、そのなかで原理と現実のギャップに気づいていくという仕掛けなわけですが、今度は思いっきり突飛。「30年後のおっちゃんの葬式劇」っていうのをやりました。僕が30年後に死ぬという設定です」

    「死ぬっていうことと、生きるっていうことをリアルにつなげることって何か。30年後っていうことを考えたときに、私が死ぬ確率っていうのは当然今よりも高いわけです。かなり必然性があります。
    しかも30年後ってどういう設定かというと、10歳の子どもたちが40歳になるころです。中年の、不惑といいながら一番惑う時期。
    そのときに自分がどういう人生を歩んでいるのか考えておこうという意味では、実はそれほど 突飛なことともいえなくなってきます。でも葬式劇って言うと、不遜だ!なんて意見は出てきます。」

    ここで市川さんは、
    『モーリー先生と火曜日』ミッチ・アルボム著
    (読書メーターより)

    『最後の授業』ランディ・パウシュ
    (you tubeより)
    を紹介。詳しくはご覧ください。

    30年後の私の通夜の場という設定で即興劇を始めると、子どもたちは、 「おう、久々だな、お前何やってる」
    「いやあ、最近仕事が大変でねえ」
    みたいなことを自然と言い始めます。40歳の自分を演じ、自分がどういうことを言いそうか必死になって考えるわけです。
    そのために一人ひとり「人生楽ありゃ苦もあるさ年表」というものをつくって自分の将来をシミュレーションするということをやってみました。

    年表を書き、劇を演じたときは、「僕は劇をやって不思議に思ったことがある。それはこの劇をやるまでは将来のことなんてかるーい気持ちで考えているだけだったが劇をやることによって将来寿司屋の経営者になるという夢が固まったからだ」と言っていた子が今高校生になっていますが寿司屋のことを忘れ、音響機器を設計するエンジニアになりたいと言い始めています。
    そこがまたこの仕掛けのいいところで、固定化するわけじゃないんです。この学びをやった子が半年後くらいに、「おっちゃん、年表にああいうふうに書いたけど、変えていいかな」と言ってきました。
    「なにいってんだよ。おまえらの30歳とか35歳とかって、未来だよ。俺はもう35には戻れないんだよ。お前らいくらでも変えられるじゃん」「そっか、これって更新可能なんだ」
    というやりとりになるわけです。でも、このことは当たり前のようで実は当たり前じゃないのかもしれません。自分の人生は更新可能!いろいろ思い描くことは大事なんだ!そういう気づきが生まれてくることが非常に面白いし、そうあってほしいと思います」

    ここで市川氏は『ゲド戦記』の作者、ル=グウィンの言葉を紹介します。

    ファンタジーの紡ぎ手たちは、今、与えられているよりも大きな現実の存在を肯定し、それを探求しようと努めている。彼らが回復させようとしている感覚、取り戻そうとしている知識は、ほかの人たちがほかの種類の生活を送っているかもしれないどこかほかの場所がどこであるにせよ、どこかにあるというものだ。

    ル=グウィン『いまファンタジーにできること』

    「ほかの人たちがほかの種類の生活を送っているかもしれないどこかほかの場所がどこであるにせよ、どこかにあるというものだ」。ここなんです。つまりさっきも言ったように、書き換えていいかなあっていうのが、どこかほかの、別の生き方、あるいは世界があるんじゃないかと思えることなんです。ファンタジーというのは、ただ荒唐無稽なものではないわけで、実は現実世界っていうものに妥協せずに、もう一つの自分の世界を作り出すことができるんじゃないか、そういう積極性があるわけです。だから先ほどの劇だってファンタジーだけど、微妙にリアルでもある。やがてはそうなるわけですから。そういうなかで面白がるということです」

  • 真剣に遊び、とりあえずやる
    それが好奇心・思考力・表現力の源

    「結局われわれがやってきたことっていうのは、基本的には遊びなんです。だからこそ結構真剣に取り組む。ただ、思い切り自分の思いを語って、たくらんで、さらにやってみたあとになんらかのかたちで表現して発表する。そんな場だけは、大人が設定してあげる。 それも内輪で発表するだけじゃなくて、どこか公的な場で、こういうことやりましたよと思いきり発表するんです。 そうするとフィードバックを受ける。 「面白いねえ、でももっとこうしたほうがいいんじゃない?」 そんな声を受けて、さらに遊びの質が高まっていく。だから少なくとも公的に発表する場とかを用意しておけば、好奇心主導の学びって、 機能するんじゃないかなっていうこともやってみて感じたことです」

    「キーワードは「とりあえず」。とりあえずやってみよう。やりながら考えればいいじゃん。だけど、やってみたことを誰かに伝えるところは、ちょっと一緒になって苦しもうよ!図とか絵とか言葉とか身体で表現してみる。葬式劇のように考えを身体で表現したり、車を引っ張ってわかったことをニュースのようにレポートしたり、あるいは模造紙1枚にまとめたり。誰かに伝えるために、必ず表現し、プレゼンテーションします。
    さっきも言ったように原体験の学びって、語りたくなるし伝えたくなる。まあ半分は自慢もあります。でも伝えるっていうのが一番難しいわけです。それでも、面白くて自分たちなりの発見に満ちたことは、どんなに難しくても一生懸命工夫して伝える方法を考えるんです。だから好奇心主導の学びは、こんなに遊んでいるのにとても表現力が伸びます。」

    車を引いたり、葬式劇をやったりしてもテストの点数が上がるわけではありません。でも、みんなでああだこうだと考えて、実際にやってみて、発表するプロセスが、好奇心を高め、しぶとく考え続ける知的耐力とフットワーク軽くチャレンジしてみる力を育て、表現を工夫しようという意欲を芽生えさせます。こうなれば、後は自分で勝手に考え、動き出します。原体験というものは、自分で何か行動を起こすときの手助けになっている。教育って、自分で面白がって、自発的に動き出せることを目指してやっているはず。実際に一人で動きはじめる子どもたちを見ると、もっとバカバカしいことをやってもいいんだなと、考えるようになりました」

  • 非合理、非効率、非常識

    市川さんは2017年に東京コミュニティスクールの校長を退任され、さらなる実践のために次の道に進まれています。

    「いままでお話ししたことって、別に学校だけでやる必要はなく、親子でやってみてもいいわけです。原体験をつくる場は、社会に必要だと考え、現在私は「探研移動小学校」という屋号で、要は全国津々浦々で、“おっちゃん”をやっております。いつでも、どこでも、誰とでも、好奇心あふれて何かをたくらみ始めればそこが学び場。また、小学校とうたっていますが「小」ってなかにもいろんな意味がありまして、別に子どもだけじゃありません。大人とも一緒に、少人数で小さなことをやる。大それたことをしようなんて思わない。大人だって、こんなこと言ったら笑われるんじゃないか、こんなことは恥ずかしいとかって、いっぱい思ってるわけです。僕は五十を過ぎた年になっても、恥ずかしげもなく“おっちゃん”をやっていられます。変なプライドを捨てて。それはほんとに子どもたちのおかげで、変な鎧を着けることなく、一緒に子どもたちと、あるいは若者たちとともに学んでいくことができます」

    「日常にありふれた、身の周りのちょっとしたコトにまなざしをそそぐこと。小さなことでいいんです。うちにある車、人差し指一本で動かせたらかっこいいよね、ぐらいのことです。さらにこんなこと言ったら怒られるとか、こんなこと言ったら低レベルだとか、こんなこと言ったらばかばかしいとか、自己規制してしまって思いつきを語れる場が意外とない。とくに大人になればなるほどない。カッコいいこと言わなきゃとか、プレッシャーみたいなものがある。だけど、まずは思いつきを大胆に語ったっていいじゃない。どんな些細なことでも、どんなおバカなことでもいい。はじめからたいそうなものを想定しなくていいよ、っていう学びの場を作りたい。これからの高齢社会、あるいはライフシフト100年時代においては、異なるジェネレーション間で対等に学べる場が絶対に必要になってきます。子どもの素直な見方とか考え方、大胆な行動力とか表現力に刺激を受けて、大人が変わるっていうことは間違いなく起こります」

    「先日あるおじいさん、おばあさん世代の方と話したときに、“子育て世代真っただ中の 30代・40代の時は、子育ての経験もなかったし、わが子を俯瞰して見る余裕は持てなかったが、子育て終わった今だったら、もっと違うかたちで子どもと関われるんじゃないか”っておっしゃったんですね。そういう方たちが、自分の孫でもない子どもたちを預かって面倒を見る。そうすると、年の離れた子どもとおっちゃんおばちゃん、あるいはおじいさんおばあさんが関わりを持つようになって、お互いが学び合える。ちなみに、子どもは好きなことは楽しいことだと思って、面倒なことはやりません。でも、大人によって自分の世界を拡げられることは、結構好きなんです。「そんなこといいから、ちょっとやってみろよ」と、ちょっと無理矢理でも引っ張ってきちゃうと「面白いねえ」と食いついてくる。つまり子ども一人では気づけないようなことを大人が気づかせてあげる。好奇心=なんでも面白がる心と考えるならば、大人にガイドされて思わぬものに触れたり、基本的な知識やスキルを習ったりすることで、こんな面白いことがあるんだっていうことに気が付く。ちょっといたずら好きな大人の役割が、これから必要になってくることなのかなと思って、活動しています」

    「現在、NHK for Schoolというウェブサイトの「メタモル探偵団」という企画の中でも“おっちゃん”をやっています。全く知らない子どもたちと、一切のヤラセもなく、「もし宇宙人に出会ったら」なんてテーマで、宇宙人について考えて、最後には宇宙人の映画をつくる、そんなバカバカしいことを真剣にやっています。」
    NHK for School メタモル探偵団

    「大人も子どもも、ともに学んでいくって言いましたけど、ここにAIも入ってくるんじゃないかと思うととても楽しみですね。AIか人間かみたいなことじゃなくて、おっちゃんと子どものなかにAIが入ってきて、大人も子どもも“AIも”ともに学んでいくことができたらきっと面白くなるでしょう。
    最後に、好奇心が動きだす学びということについてまとめると、無目的・非効率OKで、横道、脇道、道草上等で、状況に応じて思わぬ展開OK。終わりが始まりで、落としどころは不要。こうした学びを学校でやるのはなかなか難しいので、放課後や家庭に「余遊」をつくり、その中で、なんとなくの思いつきを、とりあえずやってみて、ひたすら追い続けてみることを面白がればいい。非合理、非効率、非常識を合言葉に、正解なき不透明な時代を面白がり屋として生き抜くマインドを育てる学び。そのあり方を考えていくのが、私の役割かなと考えております」

『脳の仕組みから人工知能を考える研究者は、
これからの“ひと”の学びをどう思うのか』
ドワンゴ人工知能研究所所長
 山川 宏 氏

山川 宏
1965年埼玉県生まれ。工学博士。
NPO法人全脳アーキテクチャ・イニシアティブ代表・㈱ドワンゴ 人工知能研究所 所長
1987年東京理科大学理学部物理学科卒業。1989年東京大学大学院 理学系研究科 物理学専攻 修士課程修了。1992年東京大学大学院 工学系研究科 電子工学専攻 博士課程修了。1992年富士通研究所入社。1994年同社から通産省RWCプロジェクトに参加。2014年ドワンゴ 人工知能研究所 所長。2015年産総研人工知能研究センター客員研究員就任。2015年特定非営利活動法人全脳アーキテクチャ・イニシアティブ 代表就任。2015年電気通信大学大学院 情報システム学研究科客員教授就任。
  • 二人目の講演者は人工知能の研究をされている山川さんです。人工知能とは何かという定義から始まり、進化の現状や未来への展望、そして人間とAIがどのような関係性をつくっていくべきかなど、研究者の立場からお話しくださいました。

  • 人工知能ってなんだろう?

    「市川さんのお話をお聴きして感じたのは、われわれ研究者の研究って、そのほとんどが失敗なわけです。たくさん失敗している中で、たまにいいものに当ることがあります。ところが若い研究者の中には、効率的に答えを導き出そうとする傾向が強いのか、つまずくとそこでストップしてしまう人もいます。まさに、市川さんがおっしゃっていた、粘って非効率だけど、求め続ける必要性があるなぁ、そう思いました。さて、私は富士通に20年ぐらいおりまして、人工知能等を研究してきました。2014年にドワンゴ移り、いまに至ります。特に脳科学、脳に学びながら人工知能をつくるということをやっています。所属している人工知能学会が隔月で出している雑誌では、広告とAI、人間を超えるコンピュータ、囲碁とかいろいろなテーマを特集で取り扱いながら企画を進めています」

    「人工知能ってなんだろう?これは結構大きな疑問で、あまりちゃんとした合意があるわけではありません。「人工知能学会のメンバーが集まって、それぞれ「人工知能とは何か」を書いた書籍があるんですが(「人工知能とは」近代科学社)みんな少しずつ違うふうに思っています。知能をコンピュータで作るというところまでは、みんな同じですが、じゃあそれはロボットかといわれると、必ずしもそうではないんです。人工知能は、われわれがネット上で検索をするときにその背後でいろいろ動いていたりとか、おすすめの本を推薦してきたりとか、既にいろいろ活躍しています。そういうものは、必ずしもロボットというわけではないですね。 また、機械学習というキーワードですが、機械学習というのは、人工知能の機能のひとつで、データを蓄えて学習していくことです。単純な例で言うと、天気を予測するのに、例えば夕焼けが赤いと次の日は晴れますみたいなことをデータから学んでいきます」

  • 出来あがった技術は、
    人工知能と呼ばれなくなる。

    「よくある質問に、人工知能はもう出来てるんですか?というのがあります。そもそも人工知能については、いろんな人がいろんなふうに言っています。よくある話として、出来上がってしまったものは人工知能と呼ばれないという性質があります。例えば、スマホで当然日本人だとカナ漢字変換とかを使うわけですが、あれも作られる前は人工知能って言われていました。いま、それを人工知能って呼ぶ人はいなくて、カナ漢字変換って呼ぶわけです。出来る前は人工知能と呼ばれ、出来上がると、名前がついて人工知能とは呼ばれなくなる。人工知能がほんとに出来たと言われるときは、あらゆる知能が完成したときで、もうその時は、違う名前がついているはずです」

  • 大人の人工知能、子どもの人工知能。

    「市川さんから大人と子どもの話がありましたけれども、子どもの知能という話をしたいと思います。人工知能の分野では、大人の知能はわりと昔からできていました。例えばコンピュータは四則演算やAだったらB、BだったらC、だからAだったらCみたいな論理的な推論は得意ですが、赤ちゃんが学ぶようなことというのは結構不得意だったわけです」

    山川氏は動画を再生し、AIが苦手とする子ども的知能について次のように説明します。

    Frederik Ebert, Chelsea Finn, Alex X. Lee, Sergey Levine, Self-Supervised Visual Planning with Temporal Skip Connections, 2017.
    https://www.youtube.com/watch?v=Li_vZVpiFSA

    「赤ちゃんは、様々なものを見て、それがどう動くのか学んでいきます。ロボットが、赤ちゃんと同じようにカメラで見ながら、いろんなものを触って、それがどう動くかみたいなことを自分で学習できるようになったのが、去年ぐらいです。ここをこうやればこういうふうに動くだろうというイメージをコンピュータの中で4パターンぐらいつくります。そのイメージ通りにものを動かせるかを試していくわけです。これが発展していくと、積木を思い通りに積むとか、車を運転しているときに、ほかの車が飛び出してくるのを予測するとか、そんなことに繋がっていきます。これは赤ちゃんだとはじめにできるようになることなんですけど、こういうことがようやくここ1年ぐらいの間にできていているというのが現状で、ある種AIの最先端になっているということになります」

  • 将棋における人工知能と人間の直観力

    「私は長い間、将棋と関係した人工知能の研究をやってきました。今はもう人工知能の方がものすごく強いんですけども、私が2007年ぐらいにはじめたころは、まだ人間のプロ棋士の方が人工知能より断然強かったわけです。そこで、なぜ人間は将棋が強いのかを、脳科学の見地から調べるプロジェクトが行われました。羽生先生にも被験者になっていただきました。重要なのは、コンピュータとプロの比較で、コンピュータはある局面に対して、ものすごくたくさんの手を読みます。1秒間に数十億の手読んで、いい手を選びます。読む能力が優れているわけです。それに対して、なぜ人間はそこまで数は読めないのに勝てるのかというと、局面ごとに、きっとこの手がいい!と、直観を働かせるわけです。この直観の精度が良いんです。

    何手も先を読む能力と直観力、この二つの能力の違いは面白くて、読むっていうのは、将棋のルールがわかっていれば、ここを動かすとその後こうなる可能性があると認識すること。これは、コンピュータでプログラムできます。このことは、先ほど触れた大人の知能に相当していて、コンピュータですぐプログラムできるものになります。それに対して直観は、この局面ではここに指せばいいってプロ棋士はわかるんですけど、棋士に理由を聞いても、「そういうもんだから覚えろ!」って言われちゃうわけです。こうなると、これをプログラムにしてくださいって言われてもできないわけです。ですが、それが最近はできるようになってきました。そもそもこの直観能力が人間の強みだったわけで、直観力までコンピュータに備わると、どう考えても人間は負けるわけです。そういうことが実際に起きてきています」

  • 深層学習=ディープラーニング

    「実際に人間の脳の中で何が起きているかというと、眼で見た情報が視覚野という脳の後ろ側のところで、いったん蓄えられます。次に、そのちょっと上の尾状核というところにいきます。
    この尾状核は学習と記憶に重要な役割を果たしていて、いろいろな判断をおこなう仕組みになっています。将棋を知っている人だと、この戦型は穴熊だとかを理解して、それに基づいて、ここではこの手を打てばいいということを考えます。このような脳の働きを、人工知能分野では、最近注目を集めている深層学習もしくはディープラーニングと呼んでいます。脳は何層にも重ねたようなネットワーク持っていて、それによってさまざまな認識や判断をおこなっていると、最近思われているわけです。われわれが脳の研究をしていた10年ぐらい前には深層学習、ディープラーニングという概念も、その仕組みもわかってなかったわけですが、ただここ数年で、もう非常に使える技術になってきています。結果として、囲碁の世界でもプロに勝てるようになってきたわけです」

  • 子どものように“学習”できるようになってきた人工知能

    「2年ぐらい前には、レンブラントの絵をたくさん学習して、レンブラントの新しい絵を描くみたいなことが出来るようになりました。ある種、創造性みたいなことも出来るようになってきているわけです。このディープラーニング、深層学習が出てきたことによって、たくさんのデータがあれば、絵を描くとか、車を運転するとか、囲碁を打つという特定のタスクは、人間並みとかそれ以上の性能を持つ機械学習の装置ができる。そんなことがわかってきたのがここ3年、4年くらいの大きな人工知能分野の変化ということになります。それがさっき言った子どもの知能の話とつながっていきます」

    「先ほどの将棋など、次の手をたくさん読んでいくことは大人のAIで理解ができるからプログラムできる。コンピュータの性能が向上し、計算速度もデータ蓄積量も格段に進歩している今、昔は10手しか読めなかったのが100手まで読んで、そのうち1億手読めるようになるというようにどんどん変わっていきます。でも、直観の部分、子どものAIの部分は、機械学習でデータそのものから学習していかなければなりません。それもやはり、コンピュータの性能が向上してきて、子どもがものを動かすとかものを見るとか、そういうことが出来るようになってきたことです。

    Building Machines That Learn and Think Like People Brenden M. Lake, Tomer D. Ullman, Joshua B. Tenenbaum, Samuel J. Gershman (Submitted on 1 Apr 2016 (v1), last revised 2 Nov 2016 (this version, v3))

    では現状の直観的な部分、心理的な部分はどうかというと、画像にコメントできるAIに絵を見せ実行させてみたケースですが、左の写真では、
    “馬に乗った女性が、荒れた道にいる”なんて言ってますが、ロープで人を引張っているし・・・
    真ん中の写真は、どう見ても飛行機がヤバイ状況ですが
    “飛行機は舗装道路に停まります”みたいなこと言っていますし、
    右側の写真は、家が流されてるのに
    “ビーチに何人か立ってます”ってことになっています。
    まだ常識がないわけです。もしかしたら、ようやく言葉をしゃべり始めた子どものような感じかもしれません。

  • 汎用人工知能という課題

    「人工知能分野で今後一番の課題として思われているのが、汎用人工知能(AGI: artificial general intelligence)。GはジェネラルのGですね。いろんな目的に向かって問題を解決できるという意味です。今のAIは先ほども言いましたけど、将棋とか囲碁とか特定の目的に絞れば人間より強い。でも、いろんなことをするっていうのができないんです。スティーブ・ウォズニアックというAppleの方が11年ぐらい前にこんなことを言っていました。知能ロボットが誰かのアパートに行って、ノックする。開けてもらって入ったら、今度は気をきかせてコーヒーを作って、その人に出してあげる。もちろんコーヒーはどこにありますか?と聞いてもいいけど、こういうことってできないでしょ、と。10年前も出来なかったんですが、今も同じ状態です。もちろん、コーヒーを入れるだけとか、ドアを開けるだけだったら機械にもできるわけです。しかし、こういうものを全部統合して、いろんなことができる機械が作れない、まだ難しいですね。ですからこういう汎用的な、人間だったら簡単に出来ることが、AIにはまだ出来ない。それがAIの限界であり、テーマでもあるわけです」

    「人間のように、いろんなことが出来る、そんな汎用人工知能を目指していくことが、ひとつの方向性になっています。汎用人工知能が実現すると多様な問題を解決できるようになるわけで、目的別にAIを作る必要がなくなります。開発コストが減ります。例えばワープロ専用機というのは、今はないわけです。みんなパソコンとかスマホで済ませていますね。人間でもゼネラリストとスペシャリストがありまして、さまざまな場面で他者とコミュニケーションを取ったり、みんなの意見を集約して意思決定をおこなったりするためにはゼネラリストの存在は必要なわけです。さらに、汎用人工知能が世界を探索する自律性を身に付けると、制御能力の向上や創造性にもつながってきます。きっとこうなっているだろうという仮説を創造して、世界を理解することが出来ると、科学技術の発展にもつながっていくだろうと思います。これが技術の加速を促し、いわゆるシンギュラリティ(技術的特異点)と呼ばれる、人間の予測できないような変化の速さを生み出す主な要因であると思われているわけです」

  • 人工知能における好奇心=自律的に世界を探索する機能

    山川さんは、本日のシンポジウムのテーマでもある好奇心についても言及します。

    「人工知能の分野で今考えられている好奇心というのは、世界についての知識を獲得し、自律的に世界を探索する機能を考えるというようなものになります。人間の場合はいくら面白くても疲れたら休みますが、AIは電源があるかぎり疲れ知らずに、延々と世界を調べることができます。とはいえ、AIもただやみくもに調べ廻っていたら、あまり効率的ではないですよね」

    「研究者も、やみくもに実験したからといって結果が伴うものではありません。求める情報が得られそうなところを優先的にやりたいわけです。知識を獲得するための自律性と汎用性が、相互的、相乗的な関係性になっていて、この状況なら、これをやれば新しい、わくわくする情報を得られるかもしれない、と思うわけです。汎用人工知能も、同様に推定する能力を持ち、新しい情報を得たら更にさまざまなアプローチで新しいことを探していく能力を併せ持つと、相乗的な効果を生むと思われているわけです」

    「新しい状況が起こることが嬉しい!ということを組み込んだAIでゲームをさせると、とにかく新しい画面、新しい段階にいこうと、新しいところを探し続けます。人間と違うのは、そもそも動き回ることにも、好奇心を持つことにも彼らは疲れを感じないという点で、彼らは好奇心を維持することに気を使う必要がなく、無限の好奇心を持ってやり続けるということができるともいえます」

  • 人工知能における創造性

    汎用性を実現するにあたり、いままでの経験から何か新しいことを発想する“創造性”をどう考えるかが重要なポイントになります。人間も、体験したことを部品にして、それを組み合わせて新しいことを発想していくはずです。だから、経験や体験は重要なわけですが。
    3,4年前にGoogleが「Deep Dream」 を開発しました。ネットで悪夢画像なんて騒がれたので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。これは、AIがたくさんの絵のデータを見て、ゴッホ風とかいうように様々なスタイルの絵をつくり出すことができるようになりました。様々な絵のデータ=経験を部品として取り出し、組み合わせる。そんなことが出来るようになってきました。

  • 人類と調和した
    人工知能のある世界を目指して

    山川さんは、自身が代表をつとめるNPO法人全脳アーキテクチャ・イニシアティブの理念や活動内容についても語ります。

    「私の周辺では、全脳アーキテクチャという、脳全体のアーキテクチャに学び、ディープラーニングのような機械学習と組み合わせて、人間のような汎用人工知能を作ろうという活動を促進しています。人間の脳の大脳新皮質は、身体を動かしたり、言葉をしゃべったり、論理的な演算をしたりと、いろんなことをやっています。つまり、一様な機構・メカニズムで多様な機能を獲得しているということです。同じ仕組みでいろんなことができるということが汎用性の基盤になっているわけですね。ですからこれを使ってAIを作っていく全脳アーキテクチャというものをAGI、汎用性を持ったAIの最速開発シナリオ候補として打ち出しています」

    「こういうことを考えていくうえで、もしこれが完成すると非常にインパクトが大きく、強力なものになるので、特定の組織がこれを所有してしまうということは望ましくありません。人類全体の共有物としてオープンに開発を推進することを、われわれ全脳アーキテクチャ・イニシアティブでは押し出しています。同時に、人間のように考え、振る舞うようになれることが大事だと考えています。人工知能は、必ずしも人間と同じように動くとはいえません。実際AlphaGoが 囲碁を打っていても、どう考えているのかはわかりづらい。なるべく人間っぽく考えてくれれば、人間から見れば理解しやすいですし、 コミュニケーションしやすいということで、全脳アーキテクチャは人間のようなAIを目指しています。全脳アーキテクチャ・イニシアティブでは、人類と調和した人工知能のある世界を目指し、広く社会と対話しながら人工知能を作っていきましょうという理念を提唱しています」

  • キャリアデザインを考える

    「ここで一旦話を変え、キャリアをデザインするというお話をちょっとしておきたいと思います。
    わたくしは、研究人生を楽しむ会っていうのを2005年頃に設立しました。当時、若手研究者たちのキャリアデザイン能力育成事業として、Happy Academic Life 2016というゲームを作りました。研究者が助手、助教授、教授という自分のキャリアを早期に体験するためのボードゲームです。これ結構面白いのですが、リアルすぎてあんまりやりたくないという意見が出ました。むしろ研究者じゃない人がやって、研究者ってそうなんだって思うくらいの方がちょうどよかったのかもしれません。実は、このゲームを作った後、8年くらいキャリアデザインの授業を某大学で行っていたんですが、そのときよく話をしていたのが、エドガー・シャインという人が言っていた、キャリアを考えるうえで重要な3つのこと、“自分ができること、やりたいこと、すべきこと”です。当然ながら、“できること”は、経験を積んでいけば増えてきます。また、若いときは、体力や記憶力があって、無理するとか、いろいろできるわけですけども、だんだん年を取るとそういう部分が減っていきます。でもその代わりに、知識とか能力とか人脈とかが増えてくる。実は先ほどのゲームもそういうふうに作られています。この頃によく話していた、こんな逸話があります。あるお客さんが壊れたボイラーを自分では直せなくて、修理を頼んだら、やってきた男が1分もかからずに直してしまいます。それで、「こんなにすぐに直ったのになんでこんなに費用が高いんだ」と客が言うと、男は「正しい場所を見つけられるようになるまでにかかった時間の金額です」というようなことを言ったというものです」

    「キャリアデザインの本質というのは、基本的にほかの人に簡単に追いつかれないようなスキルや得意技や人脈を、時間をかけて蓄積することで自分の社会貢献価値を高めるということになっているわけです。さて、目標があれば、それに向かって邁進し、周りから応援してもらったりします。でも、当然挫折するとダメージは大きいですし、頑張りすぎて身体を壊すかもしれません。他方、目標設定をしない場合は、あんまり頑張る必要はないわけですが、後々んになって頑張りたかったと思っても挽回が難しかったり、出来る選択肢も減ってくる。また頑張らない人は応援されないのは止むを得ないですね。また、キャリアの質問で“あなたは、どんな最後の瞬間を迎えたいですか”という質問をすることがあります。死ぬまでに3日間あるとしたら、30日だったら、3年だったら。あと3年って結構意味があって、自分の残された人生をどう使うかって考えて、社会の役に立ちたいとか考えたりします。あと3年。このくらいの設定で自分の目標を考えてみることは、大事だったりすると授業でも使っていました。

  • AI時代のキャリアデザイン

    「ここまでは、AIの進展が起こる前、10年ぐらい前にこういう話をよくしていました。AIが私も当時は思ってなかったくらい急速に発展してきたので、キャリアを考えるうえでも非常に影響があるぞということが今問題になってきています。これはロビン・ハンソンが2008年くらいに言った話ですけれども、AIが能力を上げていくと生産性も上がっていきます。生産性が上がっていくっていうことは、例えば農業をやるときにスコップを使うことで、手でやるよりも効率が上がりましたし、工事するのにドリルや重機を使ったらもっとよくなる。最近は自動化することで、さらに生産性が上がってきているわけです。ただ、AIとかITということになってくると扱い方も難しくなってきます。スコップを使うのに3年かけてようやく使えるようになりました、という人はあまりいないわけですけど、AIをつくる、AIを設計するということは3年間のトレーニングを積んでも、誰でもできるわけではありません」

    ロビン・ハンソンが「ある時代まで、人の労働が経済的価値を生み出す「職業大陸」は拡大してきたが、今は逆に「機械の海」に水没し始めている」と述べていることを参照しつつ、山川さんは語ります。

    「道具が複雑化してくると道具を使いこなせる人の割合が減ってくる。使いこなせる人は生産性が高いけれど、使いこなせないと海の中に沈んでしまうっていう可能性が高くなる。これは、頭脳労働による格差を生み出すひとつの原因になっていて、いずれは多くの職業が埋もれるだろうという話があります。こういう状況の中でキャリアをどう考えていくか、というのがひとつ問題になってきているわけです。
    これに関連することとして、例えばチェスの場合にはアドバンスドチェスという競技があって人間とAIがタッグを組んで戦います。

    この場合には、
    AI×AIをうまく使いこなせる人(○)が組むと一番強いということが言われています。
    これは別によく考えれば当たり前なんですが、
    AI×チェスのプロ(×)が組んでもあんまり強くならないということなんです。
    上司と部下みたいなことと似ていて、実践的な能力が高いよりも管理能力というか、うまく使う能力が強い方がうまくいくということと同じことが起こるわけです」

  • AIリテラシーが求められてくる

    「野村総研が、日本において2030年までに今ある職業の半分ぐらいが消滅するでしょうというようなことを一昨年くらいに予測しました。当時この記事は非常に衝撃を受けて迎えられたわけですが、最近でも、どこかの銀行では大幅に人を削減してAIに置き換えるということがニュースに取り上げられていましたので、この予測は結構当たってくる可能性が高いというふうに思われているわけです。こういうなかで人間が有利となりうる価値とはなんなのかと考えてみると、当面AIは、データがたくさんないとあまり性能が発揮できないので、データを集めにくいところ、高度に創造的な仕事や複雑なコミュニケーションはたぶん難しいでしょう。手先の器用さは、昔は難しいと思われていましたがこれはどちらかっていうとAIというよりもロボット側の問題が大きいものです。そちらが突破されるかどうかに依存することになります。人工知能をうまく活用できるかどうかということは、人間にとっての重要な価値になってきます。またAIと人間が仕事を分け合う境目は、AIの進歩にともなって常に変化していきます。AIが進歩していくにつれて、AIと人間の得意なことを考えながら、効率よく仕事の分担をする能力が重要になってきます。AIについてのリテラシーが高い人材が重要ですし、そういうことを教育する人も重要になってきます。AIがどうやって判断しているかなどを説明したりする能力も、今後は大事になってくるでしょう」

  • AI時代に人間が必要な能力とは

    「AIは、現状ですと基本的には責任を取るということができないので、人間がAIを所有・管轄して責任を取るという役目を持つ必要性がでてきます。また、社会全体としては、最上位の意思決定はできるだけ人間の手元にあった方がいいのではないかという意見があります。そうじゃないという意見もありますが、その役割もある程度残るはずです。では、そのために何を学ぶべきか。キャリアの話でいっても昔は一回就職すれば自分の人生30年ぐらいは同じ仕事をしていても大丈夫だったわけですが、このAIの急速な進歩の時代に、今はそれでは通用しなくなると思われているわけです。AIは基本的に、データがたまってくると自動化できるわけです。世界中の企業はデータが貯まってきたらそれを自動化して、効率化してサービスにして儲けようと考えています。新ビジネスができると、例えばAmazonだと倉庫の中のものの管理を全部自動化して送りだしています。ちょっと前までは最後の荷詰めをするところだけは人間やらなきゃいけなかったみたいに、端っこの方の作業は少し人間に残されるわけです。しかし、その端っこの方の作業がどんどん肥大化してくると、そこにまたデータが蓄えられて、また自動化してしまいます。このようにぐるぐる回っていきます。人材育成を考えた場合、今後きっとこのようなタスク、能力が必要になるから、そのための人を育てようという発想では、絶対にスピード的に追いつかない。つまり先回りして訓練するというのはかなり難しい。となるとやっぱり、基礎力といいますか、主体性、創造性、社会性、論理性とかの一般能力を高めるっていうくらいしか今のところ考えられるものはないということになります。総務省が2年ほど前に出したあるデータでも、AI活用が一般化する時代において有用な能力は、やはり情報収集能力、論理的思考、問題解決能力、コミュニケーション能力、企画力といった基礎的な能力が重要になってくるというようなことが指摘されています」

    「このように人から職業を奪うことのインパクトを考えた場合、現実的な経済的な問題、富の遍在が問題になってきます。どう考えてもビジネスにおいて部下を全部 AIでまかなうことができれば、一瞬にしてビジネスを立ち上げられるし、そのほうが楽なわけです。そうなるとそれで潤うのはその人だけ、あとはどこかのクラウドサーバーにお金払っています。という感じになってしまうので、社長が一人いて、あとはAIの部下10人ぐらいとクラウドサーバーで動いてればいいということになります。こうして富の偏在が起きるということです。こういうことに対しては例えばベーシックインカムとか負の所得税のように、なんらかの施策を打つしかないというふうにも思われます。一方で、そもそも人間は知的労働能力に、ある種のプライドを持っていたわけですが、それがどんどん負けていくというのは人間としての尊厳が損なわれるという側面があります。しかし、現実的には致し方ないことだと思います。こうした事態に対して、例えば2年前のDODA(デューダ)の資料だと、働くことの目的が、生産性よりも自分にとって天職だと思えること、没頭感や自己有能感、他者との関わりのような方向へシフトしていくのではないかということが言われています」

    「先ほども取り上げたエドガー・シャインの話ですとキャリア・アンカーという考え方があって、職業上の自己イメージの類型として専門能力、全般管理コンピタンス、自律・独立、保障・安定、起業家的創造性、奉仕・社会貢献、純粋な挑戦、生活様式などがあるわけですけれども、こういうものを見てみると、必ずしも専門能力が負けたからといって、人間にとっての働く意義というものが全部消えるわけではないというのはわかります。奉仕とか社会的貢献は、自分より優れたAIがいても、自分がそれをやること自体によって納得できるのであれば別にいいわけですし、自律・独立して生きていくということはAIのサポートをある程度認めればやりやすくなるし、純粋な挑戦、もちろん100メートル走を速く走るとか高い山に登るとか、挑戦すること自体に意味を感じられるというならAIの進展とは無関係です。また先ほど触れました社会全体を管理するところにはやはり人間の関与が必要なので、そういう役割を担う。そういうことを、実現するためには自分自身もやっぱりなんらかの能力を持つ必要があって、AIがすごく進展して生産性の役割をほとんど担ったからといって、別に人間が自分自身の価値づけをする方法が何もなくなるわけではないと思っています」

  • 人間とAI の倫理的な関係

    「このような状況を踏まえ、やはり人類と調和する人工知能のある世界に、どうしたらいけるのかというところですが、そこで重要になってくるのが、AIの捉え方です。責任という観点で見ると、よくアニメで人工知能は友なのか神なのか、それとも下僕なのかみたいなものがありますが、今の時点では単に指示通りに動く道具です。人間に例えると、責任無能力者的な状態。赤ちゃんが何かものを壊したら親の責任になります。要するに道具を使っている人が、責任を負うことになりますよね。これが、AI自体が自分で判断できるようになってくると、AI自体の責任を問うべきではないかという考え方がでてきます。ただAIが実体として存在すればわかりやすいですけれども、ネットワーク上のクラウドで分散していろんな処理しているようなAIだと、誰が責任を負うべきかわからない。そうするとほとんど自然災害みたいな感じになってきます。なんかわかんないけど大変なことになっちゃったから、あとは国で保証するしかない、保険に入るしかないみたいなことになります。いずれにしても人間だけでなく人工知能もコミュニティを形成することになります。それが現実世界とインタラクションするという状況になってくるわけです。それぞれがお互いに、なんらかの技術的な働きかけや情報収集をする。人間はコンピュータのない時代は、人間同士でコミュニケーションをして、環境に働きかけて情報を取ってきてたわけですが、これからは、AIも同じようにAI同士でコミュニケーションをして、世界や人間に働きかけてくるようになります。人間のコミュニティとAIのコミュニティが互いに働きかけるという状態になってくるわけです。このような中で望ましい未来社会像みたいなものを考えていかなければなりません。必ずしも今の人が単純に幸せなことと、人類が生き残ることが絶対に同じとはかぎらないので、多くの人々の幸福と人類の存続とのあいだでトレードオフが起こります。そのトレードオフをAIで緩和しながら、多様な人工知能をみんなの財産として共有し、それで人間自身も拡張されて生態系が作られていく。私はこれを「共有財産としての多様な人工知能と,時に拡張された人類による生態系-EcSIA(エクシア:Ecosystem of Shared Intelligent Agents )と呼んでいるのですが、大自然のごとく複雑広大で、誰も完全には理解できないわけです。これを人間が緩やかに制御していくことでEcSIAの生み出す富を分配できるのがよいのではないかと考えています」

    「最後になりますが、AIと人間の関係性、AIコミュニティと人間のコミュニティの関係性を考えた場合に、どういう関係になるべきなのかということを動物から考えてみましょう。動物だと、当然インパラはライオンには襲われて食べられるという捕食関係があります。また、ある動物とある動物が同じ資源、同じ食べ物をめぐって争ったりします。できれば平和的共生関係、相利共生というのが一番倫理的な関係といえます。相利的な共生というのは、与えたらもらうみたいな、ギブアンドテイクの互恵的な関係。それが一般的には良さそうに思えます。これは倫理的な関係とも関係していて、例えばEthically Aligned Designという方向性がIEEEというアメリカの電気学会で検討されています。いかに人工知能を倫理的にするかというようなことが議論されています。ただ、動物の世界でいいますと片利共生というものもあります。片方のみが利益を得る。どういうことかというと、倫理的な関係ということなら別に相利じゃなくてもいい、サメの横にいる魚みたいな感じ。AIの社会に迷惑をかけずに、勝手に利益を享受するという環境を作ってもよくて、いわゆる便乗ですね。サメの横にくっついていると、ほかの奴から狙われないから楽に移動できるというメリットを受けるわけです。人類が共生によって利益を得るんだけど、AIにとっては利害が発生しない関係というような可能性もありえます。
    まとめになりますが、人工知能は、加速度的に発展して、人間の職業にも影響を与えてきています。人が担うべき役割は変化し、学ぶべきことも変化してきています。人間が担うべき仕事は、AIが不得意なスキルだったり、人工知能自体をもっと活用したり、人間としての価値することになるでしょう。こういう価値観の変化すらも迫られて、働くことが必ずしも個人の尊厳の基盤にならなくなるということもありえます。そういうなかで私たちは何を学び、いかに生きていくべきかというようなことが問いかけられているというふうに思います」

第ニ部
パネルディスカッション
モデレーター:川崎 紀弘 氏
株式会社コンセント ディレクター
(日本広告制作協会 会員)

  • 第二部の進行は、日本広告制作協会 教育支援部会 川崎紀弘氏が務めました。

    川崎 氏 まずは山川さんにお伺いします。先ほどの講演内で、全脳アーキテクチャを推進されているというお話しがありました。もう一度、全脳であるメリットをお聞かせください。

    山川 氏 主に人間の脳に学び、脳のようなAIを作るということのメリットの一つは、開発自体が早く、進めやすいということです。

    川崎 氏 それはなぜですか。

    山川 氏 まず、実際に汎用的な知能で世の中に存在するのは、人間の脳しかないわけです。また、人間の脳もだいぶ解明が進んできました。だから脳に似せて作ると最適かどうかは分かりませんが、作りやすいんです。また、機械学習の王国という話もしましたけど、知能を作るということに対しては、可能性がたくさん存在するので、みんなで一緒に一つのものを作ろうと思った時に、同意できるポイントがないと力を結集できないわけです。

    川崎 氏 目標のようなものですか。

    山川 氏 そうですね。ある程度、脳というものに似せて作るというと合意が得られるしあるレベルまで脳に似せて作れば汎用人工知能になるはずです。それがメリットですね。みんなで分担してやりましょうっていう時に進めやすいんです。また、社会的な目線で見ると、みんなで分担して作ることで、結果としてみんなの共有物になる可能性が高められます。強力な汎用人工知能が特定の企業に独占される可能性が減るんですね。もちろんこれだけでは解決できる問題ではないのですが、ひとつのポイントになってくるということが重要です。
    先ほどもお話ししたように、人工知能の内部構造が同じものであれば、価値観を人間と似せて作れるし、人間と共存する、対話するエージェントなどにおいては人間っぽく振る舞うというように作りやすくなる。あわせて、中身を解析して人間の脳活動と対応付けができるので、人間にとって解釈がしやすくなります。

    川崎 氏 それはインターフェースの面においてっていうことですよね。

    山川 氏 そうですね。汎用人工知能の内部構造の設計と、ユーザインターフェースの両面から、脳型でAIをつくるメリットがあります。

    川崎 氏 なるほど。全脳アーキテクチャといえば、先ほど市川さんのおっしゃっていた、大人と子どもとAIと、といった話の部分でAIがどう絡んでくるのかなというのが気になるのですが、今の山川さんのお話を伺って何かアイディアが浮かんだりはしましたか。

    市川 氏 人の脳と似せて作るという部分が、いい意味で自分に引っかかってくる部分だと感じています。先ほどの山川さんの講演の冒頭で、人工知能と呼ばれている時は出来あがっていない時で、出来上がった時は別の名前が付くとおっしゃっていましたね。これは実際にICTなど、教育分野でもよく言われています。新しいテクノロジーが入ってくる時というのは、割と騒がれるわけで、例えば鉛筆とシャーペンどっちを使うか。鉛筆は良くてシャーペンはダメだ的なことも、話題になりました。それと同じように人工知能については、どう使えるのか勝手に妄想を広げています。今は「ググる」とか、当たり前のように言いますけど、「ググる」って10年前はまだないんじゃないですか。

    山川 氏 ないというわけではありませんが、ほとんど世界の片隅の話でしたね。

    市川 氏 だけど今は当たり前のようになっている。そういう事例を考えた時に、どういう形で我々をかき乱してくれるのか、どんなことが起きるんだろうみたいなことをちょっと妄想してしまいますね。

    川崎 氏 結構人間として余裕なスタンスですね。これからどうなるの、といった感じで、なかなかそういう余裕なスタンスのアプローチってあんまりないと思うんですけれども。

    市川 氏 いや、余裕ぶってる部分もあります。実際、我々はスマホに巻き込まれていますよね。SNSから逃れられない、とか言ってます。なので、すでに巻き込まれている、というのはどっかにあって、今更またすごいAIが来たから、それでなんかすごいことが起きて、慌てるのもどうなのかなみたいなのが考えとしてあります。

    山川 氏 確かに、色々なことが起こるには起こると思います。私の講演で最後の方にも話をしましたけれども、生産性の部分をAIが補うところが増えてくるので、人間にとっては楽しむ部分っていうのがより重要になる、むしろそこがないと人生を楽しめなくなるかもしれません。元々学問も、何か面白いことをやってくれ、といった感じだったわけじゃないですか。そちら側に回帰していくような雰囲気ではないかと考えています。

    市川 氏 それはなかなか楽しそうな雰囲気ですね。

    山川 氏 ありうる未来の中ではわりと良い方なのではないかと思います。

    川崎 氏 さて、今日は学びが大きなテーマになっています。先ほどの講演にもありましたが、子どもたちは、新しいテクノロジーを上手に使っていますよね。今後、子どもたちはAIにどう関わっていくと思われますか。

    市川 氏 子どもたちは、何の抵抗もなく使いこなしちゃうデジタルネイティブですね。でも、デバイス自体は相対的に見ている部分があると思います。逆に僕らのほうが古い頭で考えていて、AIに侵食されちゃうぞ、といった考えを持つかしれません。同時にもう一方、皮膚感覚に近いような事は、逆に言うと自然に触れないといけないわけじゃないですか。皮膚感覚で寒いとか熱いとかというのは、こちらで用意してあげると、それは新鮮に喜んでくれる、ということは感じますね。

    山川 氏 IPadの向こう側の世界は、子どもにとっては初めから広がっているものなんですよね。原体験ってそもそも何だろうって思うところがあって、彼らにとってはiPadの向こうの世界もある種、原体験化しているわけではないですか。そこの原体験を共有してないとこれからの世界では、むしろ会話が通じないという部分もありますね。

    市川 氏 それは全くそのとおりだと思います。だから妙なノスタルジックや懐古主義で、自然が大事なんだ、自然の芝生の上を転がることに意味がある、みたいなこととはまたちょっと違いますよね。例えば、さっきの車を引っ張る実験も、今ならMinecraft(マインクラフト:ゲーム)でも出来ます。あんなことはわざわざしなくてよくて、Minecraftのほうが、それこそ効率的に且つ試行錯誤できる。論理的に学ぶにはそれでもいいわけです。でも、それとは別に新鮮な現実の世界もあるよ、といった感じで提示していく。そういう意味での原体験というのもあるかなと思います。

    山川 氏 現状の仮想世界は、シュミレーションしたところの表層しか再現できていない。摩擦まで入れて、ちゃんとシュミレーションするとか、虫眼鏡で拡大したらちゃんと細かいダニがいるところまで見えるような具合であれば違うけど、まだ今そこまではいきません。やっぱりリアルワールドには明らかに負けている部分がたくさんありますよね。

    川崎 氏 子ども達は、ルールの理解っていうのは早いですよね。そこの世界はそうだよっていうのが子どもはよくわかっていると思うんですけが、逆に現実のリアル世界のルール、物理法則がおろそかになる部分もあるのでしょうか。

    市川 氏 それはないと思います。仮想の世界、現実の世界両方あるっていうことを知ることが、すごく大きいという部分がありますね。

    川崎 氏 いまAIの話をするとネガティブな話も出てきたりします。我々の世代だと、ノストラダムスの大予言で1999年地球がどうなる、といったSF的な見方をしていました。いまの子どもたちは、もしかしたら、AIに対してフレンドリーな感覚を持つようになるのかな、と思うんですが、その辺りはいかがでしょうか。

    市川 氏 小学生も中学生も高校生もそうですが、妙にクールなんです。そういうのもあるよね、そういう時代に俺たち生きていかなきゃいけないんだよね、という考えを持っているように感じます。わたしたちが生きてきた時代に比べてすごく素直。僕らは本当にねじ曲がって。そう考えてしまうくらい、独特の空気感みたいなものを持っているように感じます。

    川崎 氏 AIの世界において、抵抗的なものはやはりあるのでしょうか。

    山川 氏 AIが進んでいくことに対しての抵抗感ですね。それは色々ありまして、一番典型的なものは、ネオ・ラッダイト運動(ラッダイト運動:産業革命に伴う機会の普及により、失業の恐れを感じた労働者が起こした機械破壊運動。ネオが付くと、ITなどのハイテクノロジーの台頭で、雇用機会が奪われることを懸念し、それらの開発を阻止し、利用を控えることを意味する)と言われているものです。今日もお話ししましたけど、仕事を代替していく部分が当然あるので仕事を奪われる人からすると、抵抗があるものだと思います。ただ、AIを打ち壊したとしても、あまり意味がありません。打ち壊したとしても、コピーがあるものですし、だんだん、許容せざるを得ないという雰囲気になってきていると思います。また、国際的には地域紛争などにおいて軍事のためにAIが使われる可能性が大きいので、いかにAIが人道的な形で利用するべきか、そんな議論もされています。

    川崎 氏 それは深刻な問題ですね。

    山川 氏 そうですね、典型的な問題は、LAWS(lethal autonomous weapons systems)と言ってAIが自分の判断によって殺傷を行うタイプのものについては禁止した方がいいのではないかというような署名運動などが行われています。

    川崎 氏 原子力兵器の二の舞にならないようにということですよね。

    山川 氏 ある種、核よりもリスクが高いというような見方をする人もいれば、逆に特定のターゲットだけを攻撃するので、放射性物質が広く拡散するようなことは無いため、むしろ全体的には良い方向ではないかという見方もあります。戦場において人間がパニックになっている状態で何かをやるよりは、AIは常に冷静沈着に履行するので、間違いが少ないんじゃないか、というような 議論もされています。

    川崎 氏 そういう話ばかりが大きくなるよりも、日々の我々の暮らしの中でどうAIと融和していくのが重要なのかなと思いますね。

    市川 氏 そうですね。子どもたちがクールだと言いながらも、じゃあなぜ実際に身体感覚を伴うような、ある意味非効率的な時間を使うのか。子どもたちと学んでいく中で、どこまで語り尽くしても答えは出ない。短絡的に答えを出さずに考え続けていく粘りみたいなものを身に付けておいたほうが、AIフレンドリーな学びができると思うんです。その辺が原体験的なことにこだわる理由なのかもしれません。

    山川 氏 私からの目線の話ですが、ある種の好奇心をAIに無理やり埋め込めば、その好奇心は、へたれることがないわけです。だけど人間の場合、好奇心自体はあるけれど、へたれるじゃないですか。そこの仕組みはちょっとAI研究者としても僕はあんまりちゃんと考えてなかったと思っています。

    市川 氏 へたれるんですよね、人間は。実際にいまの子どもたちも、AIに大変興味を持っています。子どもたちはディープラーニングのようなものが好きなわけです。家ではお母さんに「もうあんたへたれちゃったの、疲れちゃったの?」みたいな現実がある中、「おっちゃん、俺、なんか嫌になっちゃったよ。奴らは、千万年でも一億年でもずっとやれるんだから、俺たち適わないじゃん!」と、言いに来るんですよ。

    山川 氏 人間は疲れますからね。AIも高度に進展すると、自己保存のためにエネルギーをセーブする機能とかがあるべきなのですが、逆に言うとまだそこまで進歩してないという見方もできます。

    川崎 氏 ちょっと話は変わりますが、先ほど偶然の出会いという話が市川さんの講演の中に出てきました。偶然って重要なキーワードなのかなと思いました。AIにおいても偶然というのをプログラミングするのか、突然入ってくる情報とか、突然ひらめくみたいなところって、人間のクリエイティブの部分だと思うのですが、ここの辺についてはどうお考えでしょうか。

    山川 氏 まず偶然とは、基本的に予期しないことだと思います。そもそも予期していたら想定どおりですから。多くの場合、AIは予期できないことを嫌います。安全技術は基本的に、偶然をなくす方向に進むものです。

    川崎 氏 そうですよね、確かに安全を考えるとそうですね。

    山川 氏 だけど、本当に新しいことは偶然から起きたりすることもあるじゃないですか。その辺は自律性が高い方が、AI自体で科学技術を進展させる可能性があるわけです。最近では、どこまで偶然性を許容すべきかといった議論もされています。

    川崎 氏 人間の偶然性という意味においてはどうでしょうか。

    市川 氏 結局偶然というのは、人間がそれを偶然だと判断したものを偶然と言ってるわけです。

    川崎 氏 なるほど。本当は偶然じゃないかもしれない。

    市川 氏 そうですね。人は何かを偶然だと受け取ってしまうところがあります。その偶然の受け取り方も、様々です。例えば山を転がる子どもたちを例にとると、たまたま行ったところに山があったのか、たまたま山があったから転がったのか。何をピックアップするかというところに、偶然性みたいなものがあるわけです。

    川崎 氏 なるほど。偶然をチョイスしているわけですね。

    市川 氏 そうです。そのチョイスしたものについて、これって面白いかも、とか、そこからさらに発展させて、こじつけていくと、迷信みたいになるかもしれません。これが起きたのは、昨日お祈りしたせいだよ、と言っているのと、あんまり変わらない部分もあるわけです。

    川崎 氏 すごく人間的ですね。

    市川 氏 でも迷信にしばられず、それをキッカケにして、何でだろうと考えることを面白がれるかどうか。偶然には何かを動かすチカラもあると思うんです。

    川崎 氏 クリエイティブや創造性という話がテーマになっていますが、その中で、偶然性とチョイス、というお話しは肝になると思います。ところでAIはどのくらいクリエイティブな思考をもてるものなのでしょう。

    山川 氏 実は、汎用性と創造性というものは限りなく近いものです。汎用性といわれるものは、データ中心で進むのではなく、未体験の例外的なところでいかに勘が働くか、予測ができるかみたいな話なんです。例えば、浜辺に打ち上げられた魚を食べた猫が倒れたのを見ていたとします。そしたら、この魚は食べない方がいいぞと推定できるわけです。それは別に自分が食べてみるまで確信しないぞ、と言っていたらダメなわけです。

    川崎 氏 そうですよね、文明的に。

    山川 氏 だから、確定的ではないけれども、ある仮説を立てられる能力というのは出来なくちゃいけません。それもある種の創造性なので、それと汎用性というのはほとんど表裏一体というかたちになります。そして、創造性や汎用性の機能をどういう枠組みの中に入れておけば、外部にいる人間がコントロールできるのかというような事が一つのポイントになると思います。また、人間が見た時に、何をやっているかを理解できるというのも重要になります。

    川崎 氏 このAIはこういうやつです、といった人格設定をしていくわけですか?

    山川 氏 それは良い選択肢かもしれないですね。ある種パーソナリティみたいなものを設定して、人間にとって理解しやすいような状態にしておけば、そもそも保守的にしか動かないAIは放っておいても大丈夫、みたいな安心感はあるかもしれません。

    川崎 氏 堅物ですこいつは、みたいな感じですかね。

    山川 氏 そうですね。とりあえず安心して放っておいても大丈夫です、といった感じです。

    川崎 氏 こいつはアーティスト型ですとかあるんですかね。

    山川 氏 芸術肌だけど、考えてはいることは大したことないですよ、とか。

    川崎 氏 なるほど。ここで最初の話に戻るのですが、市川さんのお話しのなかに、大人と子どもが協力しあって共に学んでいくという内容がありました。その中にAIというものも最後に入っていましたが、これまでのお話しを聞いてどのような感想が出てきましたか。

    市川 氏 子どものAIの話に近くなってきますが、結局赤ちゃんや幼児が大胆な発想なり行動をできるというのは、それだけチョイスの幅がなかったり、世界自体が狭かったりするからなわけです。
    逆に言うと、大人はいままでの経験などから来る思い込みがあるので、そこから逃れて何かを判断するってなかなか難しい。そうならないためには、より論理的に考えて、自分の思考を反省しないといけない。自分でそれが出来る人は非常に賢い人だけれど、子どもの場合はおろか、大人もできない人が多いわけです。複数の人がお互いの考えを精査し合うことを面白いと思えるか、それともただの非難大会、批判大会になるのかという、ここが大きいわけです。実際に、おっちゃんと子どもという形で学んでいる時は、僕も突っ込まれます。ともすると非常にバイアスのかかったことを言ってしまって。そうすると子どもたちに、ここの部分が違うと思うんだけど!と言われてしまいます。そういう部分を相互に見つけ合っていくというのは、実はやってみると苦ではないんですね。AIはわれわれの考えたアイデアをどう想うだろうと考えると、面白いことなのかなと思いますね。

    川崎 氏 好意的な興味としての一つの思考が増えていくという判断ですね。

    山川 氏 議論をするときに2対1とか3対1とかになると、バイアスがかかります。それを解消するためにバーチャル空間内で一人の論客を複数化して分身にするんです。そうするとバイアスが減るっていう研究があったりもします。また、仕事を頼むときに、男性に対して可愛い女性のアバターが頼むと受け入れやすくなったり、頑張るといった結果もあります。実際は、その後ろにはオヤジがいるわけです。「本当は後ろにオヤジがいるから、俺は言うことは聞かない」と考えるのは結構大変じゃないですか。ペットロボットが可愛く見えても、あれはロボットなんだから可愛いと思っちゃいけない!とか。でも、そんなことをイチイチ考えるのは大変なので、だんだんみんな諦めて、まあいいや、そう思ったからそうしよう、そんな考えになってくるんです。それがどこまで良いのか悪いのかというのもあるし、実際、社会に既に入りこみ始めているので、入ってしまっているものをこれから禁止するのは結構難しい。だから、どうしましょうかね、みたいな話なんです。感想になってしまいましたけどね。

    川崎 氏 笑い話ですけど、AIのスピーカー端末に対して、音楽を止められなくなって懇願するっていうことが起きてたりするらしいですね。スイッチがなくて。そういう意味では市川さんのいうAI時代に突入していく中で、ポジティブな人間の在り方みたいなところ、共感される方も多いんじゃないかなと今日は思って聞いていました。

    川崎 氏 ここで、皆さんからご質問を受け付けます。

    質問者1
    普段保育士をしています。赤ちゃんを担当しているものです。AI同士がコミュニケーションを取るというお話がありました。人というのは言葉を獲得するとイメージする力と考える力がつくと思うのですが、AIもその力をつけることができるのでしょうか。

    山川 氏 いろいろな観点があるのですが、まず、コンピュータ同士がコミュニケーションするというのは単純には、昔からある話なんです。
    言語の話ですが、人間において言語を使うということは、市川さんの話に近いところになるのですが、非常に重要なポイントです。言語があると、他者と情報を伝達できるということは割と分かりやすいのですが、これは自分の中である種の概念にラベルを貼り付け、それについて考えられるようになることです。記号として扱って自分の記憶に残しておいて、それを処理してまた新しいことを考えるということが出来る。これに関係が深い機能として仮想する能力があります。
    市川さんの講演内で、仮想の葬式みたいなことをやっていましたけど、あれが仮想だということが分かるのは多分人間以外にいなくて、例えば犬に仮装の葬式をやることは多分できない。それは、ほとんどの動物は現在の自分しかないからで、これは今の本当のことじゃなくて30年後の自分のはずだということをどこかでずっと覚えておけるのは人間だけなんですね。まだ正確な根拠は揃っていませんが、基本的な能力と関係してるのではないかということは言われているので、その辺もおそらく重要になってくると思います。

    川崎 氏 コンピュータの記憶は消えないしアドレスもしっかりしているから、そういう言語による記号化はあまり意味がないと言うか、元々そうやっているものかと思うのですが、違うのですか。

    山川 氏 コンピュータは記号を扱っていますが、講演中に上映したビデオの中で、最近ようやく子どもがする行為が出来るようになったと触れました。あれは去年の映像ですが、あれができると初めて実際に触って、それこそ原体験ですけど、触っているとか見ているとか、その行為が記号化されます。今までのコンピュータは記号だけの世界なので、四則演算などを記号だけで行っていました。だけど、触っている感覚っていうのは、ざらざらだという記号があってもしょうがなくて、動かすとどうなる、スピードを変えるとどうなる、といったように、触覚や視覚など、いろんなデータが統合されて初めて言葉としての意味を持つことになる。よく、記号だけで処理をしていることを辞書的といわれます。例えば石って何かと聞いた時に、石は小さな岩ですと答えます。では岩は何ですかと聞くと、大きな石ですと答える。これだとぐるぐる回っているだけで意味がありません。人間がそうじゃないのは、あらゆるセンサー情報が統合されたものと紐づいているからなんです。グラウンディングというのですが、それがあることによって記号が本当に役立つものになっているというのが人間の知能ということになります。

    川崎 氏 ということは、コンピュータの中でイメージが発生したということなのでしょうか。

    山川 氏 そうですね、しかし、言語自体を学ぶというのと言語自体が生まれる、創発するというのは、関係はするのですが、また別の話です。人間社会において、様々な文化や言語が生まれたわけです。色々ああだ、こうだと言いあっているうちに、とあるものの共通項が出来てきて発生しているわけです。例えば猿も、敵が来たことをみんなに知らせる声はあります。でも、それを言語化し組み合わせて文法にしているのは人間と、あと若干、鳥が出来るかどうかっていう話がちょっとあります。高度な意味での言語は地球上だと人間しか今のところできないんです。

    質問者2
    山川先生に質問ですが、先生がお話しされた全脳アーキテクチャは、非常に理想的な話だと思うのですが、一方で現実的な世界を見ると、例えばAmazonがAIを使って儲けている現実がある。このまま行ったらアメリカの会社だけが大儲けする世界に、多分もう既になっていると思うんですけども。これはどうしたらいいとお考えですか。

    山川 氏 全脳アーキテクチャがあればその状況を覆せますとかって言えるくらいすごかったらいいんですけれども、当然そう単純に行くわけがありません。日本だけではなく色々な国の人たちが、そういったIT大手が世界的な富を集めてしまうのではないかという危機感は抱いています。汎用人工知能に着目して、それが最終的に結構大きな利益を発生させるテクノロジーだと思っていているのは我々だけではないわけです。例えば有名な所だとチェコのGood AIという会社では、そういうことに対抗するためにAI開発のレースを避けてみんなのものにしていくということを議論し、そのためにパートナーを募集したりしています。私も、周囲の方々とはしばしばよく話をしていますが、簡単に解ける問題ではありません。多くの世界の人の英知を集め、強力なAIが生まれた際に、人類社会をいかに幸せな方向に誘導していくかを考える必要があります。我々の全脳アーキテクチャも、脳型AIによってそういう未来を実現するというひとつの選択肢を提示して、その選択肢を育てていくということが大事だと思っています。

    質問者3
    いまAIに関して世界で進んでいる団体には、どのようなところがあるのでしょうか。

    山川 氏 昨年の10月くらいに、AGI(artificial general intelligence)を開発している組織をまとめた資料が、AIのリスクに関して考える機関から出されました。そこでは45の組織がピックアップされています。我々の全脳アーキテクチャ・イニシアティブ(WBAI)もその一つに入っていますが、現在、最も汎用人工知能で先端的だといわれているのは、イギリスにあるディープマインドというGoogle系列の会社で500人ぐらいの規模です。そのうち研究者が300人ぐらいいて、汎用人工知能に関わる研究をすすめています。また、ここ最近中国がものすごい勢いで脳型AIに向けての投資を始めています。いまの段階では、ディープマインド社が圧倒的トップレベルだと思いますが、中国の追い上げがどこまで進むかというあたりにも注目しています。アメリカでも、Googleはそうですが、FacebookとかAmazonとかも当然進めています。汎用人工知能というものが、いまや夢物語ではなくなってきているので、今後とも世界的にいろんな団体のプレイヤーが、たくさん出てくると思います。状況としては今後とも余力あるところは投資してくる可能性が大きいと思います。

    質問者3
    もう一つ質問なのですが、例えば将棋でも囲碁でもいいのですが、同じタイプのAIが、AI同士で勝負したら引き分けになるのでしょうか。

    山川 氏 それはなかなか良いポイントですね。ALPHA GOや、今ではALPHA ZEROといって将棋でも囲碁でも対応できるAIが出てきています。あれは最近、AI同士が対戦して強くなるようにしています。AIの学習は、ちょっとでもデータが違っていたり、ちょっとでも初期値が違えば振る舞いがちょっとずつ変わってきます。だから、同じものから作ってもそれぞれ個性が異なります。それで戦っていくと、どんどん強くなっていきます。

    質問者3
    あえて同じデータのもの同士が戦った場合には、止まってしまうような感じになるのでしょうか。

    山川 氏 どうなんでしょうか。そういうタイプのゲームを考えればあるかもしれないですけど、少なくとも囲碁や将棋には先手後手があるので、止まるという事はないと思います。特殊な状況を考えるとあるかもしれませんが。

    川崎 氏 AIにも個性があるということですね。

    山川 氏 基本的には学習型なので、そうなりますね。全く同じように作っていても、データを一個加えた瞬間にすこし変わっちゃうわけですからね。

    質問者4
    市川さんにお伺いします。私は普段、恐竜特集や深海特集といった、知的好奇心を育てるような本を作っています。市川さんの、好奇心というのは、なんでも面白がるというものであるという定義にすごく驚いて衝撃を受けています。子どもたち自らが主体的なスタンスで模索し、何でも面白がれるための教育のあり方について、お聞かせいただけますか。

    市川 氏 好きなことっていうのが結構深いわけです。面白い図鑑って、導入部で何かワクワクしちゃう!という作りをされている事はとても大切だと思います。ただし、これは大人も子どももそうなんでが、楽しくさせられちゃうということに慣れてしまうこともあると思います。これは楽しく書いてあるから読むけど、こっちは読まないよということが起きてしまう。でも本当の意味での知的好奇心が進んできたときは、単純に与えられたものが瞬間的に面白いからじゃなくて、先ほどの偶然性と結構近いんですけど、例えば恐竜からどんどん入っていって本当に恐竜博士になる人が何パーセントいるか、あるいは昆虫が好きな子どもってたくさんいるのに、途中で、昆虫ばっかりやってないで色んなことをやりなさい!なんで怒られちゃうかもしれない。一つのことを突き詰めていくという時に、それこそフィギアスケートの羽生(はにゅう)さんは、神経生理学とか、スケート以外のことも学んでいると記事で読みました。あと、将棋の羽生(はぶ)さんも、将棋以外のことにも興味を持ちますよね。

    山川 氏 羽生(はぶ)さんは人工知能にも興味をもっていました。

    市川 氏 そうですよね。ただ、大人は直接関係ないからやらないとか、これは好きだからやるとかになりがち。また、安全性の話しになるとフィギアスケートの羽生(はにゅう)さんは、相手の様子を見て3回転でも勝てると踏んだら、無理しなくてもいいかもしれない。でも、自分としては面白くないんでしょうね。4回転を選ぶ。あえてこっちへ行くみたいな選択。
    結局好奇心っていうのは好きな事からスタートしていいし、なんとなく好きでいいんだと思います。だから基本的に入り口としては絶対、恐竜とかあるいは深海の動物ってこんなに面白いんだぞ!というものがあっていいんです。その後で、待てよ!深海のことと、山って関係ないのかな?とか、生き物と無生物って全然関係ないの?とか、子どもはそういう疑問を持つと思うんです。そういうときに、私のような変なおっちゃんなり、友達なり、他者の存在に揺さぶられながら、好奇心が芽生え、全然関係なさそうな事だけど、もしかしたら何かに繋がるかもしれないと考えていけば、それが最終的にクリエイティビティだったり、予想外な発見に繋がっていく。教育ということに関して言うと、関係なさそうだけど面白がれるようなピースをそこに組み込むとか、何か工夫をしていく必要があるんじゃないかって思います。

    山川 氏 今日、キャリアの話を少ししましたが、キャリア戦略の中で、わりとよく言われているのが、ナンバーワン戦略とオンリーワン戦略っていうものです。ナンバーワン戦略はどこかで一番になる、野球で強い、とかということなんですけど、ナンバーワンになれる人は多分少ないので普通はオンリーワン戦略を選びます。複数の領域の掛け算で独自性を構築するんです。若いうちに何か一つ確立して、更にまた一見関係ないようなものだけど、もう一つ加える。すると、その両方が出来る人はあまりいなくて、オンリーワンになれたりします。

    川崎 氏 ドラゴンクエストの賢者もそうですね。二つの職業、僧侶と魔法使いを極めると賢者というエキスパートになれるという感覚が近いのかもしれませんね。

    質問者5
    私は、教育委員会で教員の研修を行う部署に在籍しています。今日私がここに来ましたのも、教育の現場におりながらAIに関する知識に疎く、危機感を感じているからなんです。2030年の子どもの姿を想定して、いま新しい教育の在り方というのが求められていて、現場の教員も何を身につけなければいけないのかを模索しているところです。AIが今後進化していくなかで、主体性や創造性、社会性、論理性など一般的能力を高めていくしかないというような話でしたが、そのような子どもを育成していく教員や周囲の大人たちが、現在でどの程度AIに関する知識を持っておくべきなのか、お聞かせください。

    市川 氏 これはすごく大事なポイントです。結局2030年のことは誰もわからないんです。リスクと不確実は違うわけで、リスクは計算できるけど、どこまでいっても2030年に何が起こるかまではわかりません。その不確実性に直面した時に、先生たちが、知識を獲得しようとするか、知識を更新し続ける、情報をアップデートし続ける必要があると思います。2030年はこうだろうからと、今考えて行動したとしても、多分AIのサイクルが速いので、来年どうなっているのかさえわかりません。そうなった時に、常に知識を更新していくことを面白がれるのかどうかにかかっていると思います。それが負担だと思って、うんざりしてしまうわけではなく、子どもたち以上にいろんな情報を面白がって、さらに自分は、こう思うんだという仮説を、子どもとともに作っていけるような、そんな環境があるということが重要なんじゃないかなと思います。

    山川 氏 人間は、生まれてから子どもの時に、割と柔軟性が高いところからいろんな問題を解けるようになっていく。赤ちゃんの頃は柔軟性はマックスなんですけれど、ほとんど何もできないですね。だんだん知識や身体を使えるようになってくると、あるものごとに特化してくるので、柔軟性が減ってくるというわけです。これは私の仮説なのですが、人工知能を作っても、その柔軟な状態からだんだん特化していって柔軟じゃなくなる状態に陥るということは常に起こるわけです。それは生物が発明した非常に優れたシステムで、常に新しい方法が新しい状況に対して適応していくというのを回していくことが大事なのではないかと思うんです。だから若い人たちが早い段階から情報をどんどん得て、どんどん新しい情報に適用していき、早く能力を発揮できるような、そういう状況が望ましい。我々50歳ぐらいの人達は、過去の履歴に引っ張られて新しい状況になかなか入っていけなかったりします。だからたぶん子どもと話していて、それが学びになる。世界のサイクルが速くなればなるほど若い人たちの情報の方がその状況に合いやすくなる。そこをうまく生かしていくというのが大事なんじゃないかなと思います。

    川崎 氏 その領域においては“教える、学ぶ”の関係性が崩れますよね。それを危機と感じるかどうか。

    山川 氏 今は昔と違って、年寄りしか知らないこととかってあんまりないですよね。

    川崎 氏 そうですね、残念な世界っていうか。歳を取っていくとそうですよね。

    市川 氏 今までの常識からすると、先生がものを知らない状態で子どもの前に立つのは如何なものか、と非難にさらされることがあったのかもしれません。でも今後は社会自体がむしろ柔軟に吸収し、若者と学びあうことが必要になると思います。生涯学習が盛んに言われる昨今、ならば教える側、学ぶ側の意識も取り外して、柔軟に学び合うことが必要だと思います。

    川崎 氏 OECDのまとめなどを見ても、大人の皆さんを保証することはできないし、どうなるかわかんないから、どうなっても大丈夫なように学んでねって、すごく無責任に捉えることもできますね。

    市川 氏 実際そういう状況だし、例えば先ほど山川さんの講演内にあったように、最低限度の収入補償をするベーシックインカムみたいなもので僕らを救ってもらえるのか、そんなところに行きついてしまう。その中で残った人たちがどう生きていくかって考えた時に、OECDが、学び続けることに意味がある、それを信じて学び続けなさい。というメッセージを伝えていると考えれば、すごく意味があるなと感じます。

    質問者6
    市川先生にお伺いしますが、子どもが現実と仮想を見分けるのには、どういうことを学ぶべきかということを疑問に感じました。現実と仮想というものがどんどん近づいてきているなかで、漫画を本当と信じ込まないというのは当たり前ですが、子どもはどうやってそれを自分の中で区別していると思われますか。

    市川 氏 子どもたちは、ファンタジーと現実の境目のぎりぎりのところにいます。ただ一点、痛いとか辛いっていうことはわかる。ファンタジーの世界だと辛いといってもリセット可能だし、痛いといっても、そこまで切実には感じないわけです。でも、現実の世界での痛いとか辛いということに関しては切実に感じることができます。結局びしょびしょに水に濡れちゃうというのは気持ち悪いし辛い。これはどう考えてもファンタジーじゃなくて現実なんだみたいな部分があるわけです。あと、なぜ公園の山で転がったりするのかいうと、ファンタジーの世界に入っているからなんです。自分の架空の世界のなかの登場人物になって転がっているんです。でも、ふと我に返るとズボンのなかにいろいろチクチクしたものが入っていて、気持ち悪い。そう感じるときには現実なんですね。
    つまり、境目って微妙なんです。両方の世界があるっていうことを自覚しているか、あるいはもう仮想しかないかっていうのは結構重要な問題で、少なくとも僕がさっきから原体験というかたちで提示していることを体感してる子どもたちは、両方の世界、現実ともう一つの世界、あるいはまたさらにもう一つの世界というようにいろいろな世界があるかもしれないという可能性を考えることができるようになっているということだと思います。

    質問者7
    学びが必要なのって実は大人なんじゃないかと思っています。40代後半から55歳くらいの方々が、この5年間くらいでものすごく残念な状況になってきている。4、50代の人たちがかっこ悪かったり、美しくなかったりするっていう状況になってはいけないと思います。そのためにはどんな学びの場があればいいのかということについて、もしお二人のお考えがあればお聞きかせください。

    川崎 氏 大人の学びについてですね。

    市川 氏 いま、カッコ悪い、美しいという話が出たんですけど、一番かっこ悪いのはいつまでも虚勢を張っているような大人です。虚勢を張っているのは、一番カッコ悪い。
    僕の場合は、はじめから子どもたちにおっちゃんと呼ばれてしまいました。当時40歳くらいで、わりと抵抗もあったんです。でもまあ、おっちゃんだよな、みたいなことでスタートしました。そのおかげで、いまだに10代の子たちとかに対しても対等に自分が迷っていることか、辛いこととか、逆に50歳過ぎたからこそどうでもよくなっちゃったよ、みたいな本音の部分もお互いに語り合えることがあります。それが私はすごく重要だと思っています。何かゴールを設定して、そこから逆算していくということでは今までと同じパラダイムでしかないので、そうではなくて少なくとも自分の思いついたことを年齢とかに関係なく素直に語り合える場というのが、まず最初に必要かなというのが私の考えです。

    山川 氏 私は人工知能分野の研究者なわけですが、ちょっと問題だと思っているのは、みんなめちゃくちゃ忙しいということなんです。そうすると何が起こるかっていうと日常的な業務が多すぎて、自分たちが学ぶ時間というのをなかなか取れません。本当は研究する人というのは、世界の動きを見て多面的に情報を収集して、その次のことをやっていかないといけないのですが、人数が少ないところ、能力の高い人のところに仕事が集中しすぎていて、将来的にあんまりよくないんじゃないか。そんなリスクについても心配しています。

    川崎 氏 学びの話になると大人の学びのテーマが結構出てきます。これも結構切実なところですよね。

    山川 氏 大人は好奇心あるんですかね。

    市川 氏 あると思うんです。僕はそう思ってるんですが、でも山川さんがおっしゃったようにそれを発揮する余裕がないんですよね。

    質問者8
    いまAIが盛んに話題に出てくるなかで、巷ではスタディサプリやICT教育が台頭してきています。そういうなかで教員は今のままではいけないと思うんですが、これからの教員に必要な能力、そして箱としての学校の環境のあり方について、お伺いできればと思います。そしてもう一つ、先ほど市川先生が痛みについて言及されましたが、人間の身体性とその拡張というものにAIがどのように影響してくるのか、ということをお伺いできればと思います。

    市川 氏 私は学校という箱から出てしまった人間ですが、もし学校がなかったら何が一番困るだろうと考えたときに思い浮かぶのが、どうやって一人ひとりの子どもにアクセスしたらいいんだろうということなんです。例えば私がかっこいいことを言っていれば、ふわっと集まってくる層がいるんですね。でもそれはやっぱりそういう層であって、実際にはいろんな人がいるわけです。そのいろんな人たちに会いたいと思ったとき、最初の興味関心に引っかからなかった人たちのことは放っておいていいのか、という話になります。そういうときに見えてくる公教育の凄さは、いろんな子たちがとりあえず来るということなんです。とりあえず来てくれて、その子に会えるというのがすごく大きいわけです。ICT (Information and Communication Technology:インフォメーション アンド コミュニケーション テクノロジー)やスタディサプリについていうなら、こういうものはどんどん発展してきます。昔と違っていまは、そういうものを子どもたちが勝手に使ってくれる。だからこそ、より原体験の方に振れるということもあります。道具はすべて使い方が大事なので、いい使い方もあれば悪い使い方もあります。箱としての学校の話に戻ると、学校にはある決まった時刻に、ある人間が集まるという義務みたいなものがあって、そこで何かを考えられる。強制的な場という存在がすごく大きくなってくるわけです。そのなかで、今までの前提みたいなものを一つずつ、いい意味で疑いながら改善していくということが必要なんじゃないかなと思います。

    川崎 氏 確かに今の時代において人が集まっている価値ってめちゃくちゃ高いですね。

    市川 氏 そうなんです。もちろんSNSでも構わないわけですけどね。

    山川 氏 まず前半の質問に対して、私は大学の教育に関して、アメリカの大学の調査などをしている先生と話す機会があって、アメリカの大学はネット教育を中心とした大きな大学と、超エリート型の、みんな下宿して集まるみたいな大学に二極化していく方向にあるそうです。ネット教育中心の大学では、コストが安くなってみんなが好きな時間に受けることができる。エリート型の大学では、さっきの話にも近いのですが、ある閉じ込められた空間で密度の高いコミュニケーションをして、将来の礎や人脈を作っていく。ディスカッションとかコミュニケーション、社会的能力の向上に重きを置いています。このような二極化があります。日本の高校でもこのようなことが起こるのではないかと思います。
    後半の身体性の話ですが、脳型AIにかぎらず、基本的に知能というものは自分の周りの世界で起きていることを、視覚や触覚という身体センサーから得る情報に基づいて構築されています。人工知能の場合はセンサーが人間とは違ったセンサーを使うこともできます。センサーの種類によって見え方も違います。ということで身体は知能と基本的に切り離せないものとなっています。知能のあり方というのは、機械やAIが持っている身体に依存して決定されるもので、そこの違いによってどういう知能を発揮できるかという部分にも影響が出てきますし、例えば、地球の気象の予測をしたいときには、当然地球上に温度センサーとか気圧センサーをばらまかなきゃいけないし、人工衛星も必要です。AIにとってはセンシングが身体性に代わるものということになります。

    川崎 氏 センシングと身体性って、いってみればイコールなんでね。なかなかイコールと認識しにくい部分も人間としてはありますが。

    山川 氏 身体性といった場合には、動かす部分も入ってきます。自分が思ったとおりに動かすという部分があります。例えばテニスで、上級者になるとラケットを自分の体のように動かせるとかっていうじゃないですか。これはある意味、身体が拡張されるということですし、逆にいえば腕だって切り落とされてしまえば身体の一部ではなくなるわけです。自分のコントロール下にあるかどうかという観点ですね。

    川崎 氏 そうやって考えると、今はAIの進化に対して脅威を持っているけど、ちゃんと人間も対応していくということですね。人間は変わらないけどAIばかりが進化して怖いということではなくて、 人間も環境適応能力の高さはあって、技術の発展に合わせて人間も変わっていくんだなとお二人の話を伺っていて思いました。

    山川 氏 変わっていくのは間違いありません。しかし、さすがに人間の世代交代のサイクルを速めるわけにはいかないので、機械の変化、進歩が加速度的に上がってしまうと、どこかで追いつかなくなる問題はあります。例えば人間が追いつかない典型的な例でよく言われているのが、株式市場のデイトレード。コンピュータアルゴリズムが数ミリセック単位で売り買いをするので、絶対人間は追いつけない。自動運転も、例えば完全に自動運転だけで動いている世界やあるエリアがあったら、そこに急に人間が入っていったら絶対に安全に運転するということはできなくなります。そのような絶対的なスピードによって人間が排除されてしまうみたいな状況はどうしても起きてきます。そういうことについては少なくてもリアルタイムでは追いつけないので、もっとメタレベルのコントロールで、ある程度、修正をかけていくというような付き合い方をするしかありません。

    市川 氏 便利なものを使うと、不便なことをわざわざすることはないと思ってしまいますよね。でも、ときにはわざわざ不便なこともしてみるという、そんな余裕も必要だと思える人は、AIともうまく付き合っていけるんじゃないかと思います。

    川崎 氏 最後に一言ずつ、本日の感想をお伺いできますか。

    市川 氏 単純に学びの実践について話すだけではなく、時代の変化の中で、これから学びと教育について考えていくことはすごく大事だなと思いました。学校はすごく大事だし、これからも大きな意味を持つけれど、学校だけが教育を担っているわけでもなく、家庭だけが担っているわけでもない。社会全体で教育について考えていかなければいけないと思います。そのとき、明らかにAIの登場が学びと教育というものに大きなインパクトを与えることは間違いないわけで、それを僕は面白く使っていきたいと思っています。だけど最後に便利さについても話したように、人間による使い方や接し方についてもっと考えないといけない。技術の発展に合わせて、もっと社会全体も変えていこうよというムーブメントになるかどうか。そうでなくても勝手に社会は変わっていくとは思います。そのとき、本当の意味で生き方というものが今まで以上に問われてくるんだな、ということを、こうやってお話しさせていただくことによってあらためて認識することができてよい機会でした。

    山川 氏 実は、今日は小学生入学前の息子と妻が来ていたので、さきほど感想を聞いてみました。子どもは小学校に入るぐらいです。市川先生の話を聞いて、僕がいつも子どもを保育園に連れていくときに寄り道をしていたのは、意外といいことだったということで、先ほど妻に評価されました。

    川崎 氏 素晴らしい効果ですね。

    山川 氏 それはさておき、最近では中学生とか高校生ぐらいでもすごい発明をしたりする人がどんどん世界で生まれてきていますよね。若い人たちが小学校ぐらいから知識をたくわえて、何か新しいことを思いつくということは大事にしていかなきゃいけない。そう思っています。彼らに何をどう教えるべきか、ということより、彼らにどんどん生み出していってもらわないといけないなと強く感じることができたのが私の今日の収穫だったと思います。

    川崎 氏 ありがとうございました。

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